祝福のメッセージ:2015ー02

Part II-Correspondence17
No.201502 
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

14.人間なのに、その人が神であるなどとどうして言えるのか

 親愛なるグレッグへ。

 百キロマラソンの準備は進んでいるのかい。シェリーや子どもたちは元気かい。この次の手紙で様子を知らせてくれたまえ。

 お前の手紙を嬉しく読んではいるが、私がお前の考えているように信仰を持つとはとても思えない。しかし、そんなことは誰にも言えないことだ。ただ、お前が言っているキリストの復活についての議論にはとても説得力があったことは確かだ。

 お前が盲信的に信じているのではないことがよく分かった。たとえ私の疑問の全てが答えられないとしても、真面目に勉強して、いい大学と大学院を卒業してそれでもまだキリスト教を信じているのだから、そこに何かがあるのだろう。私には信じられないが、言われてみると復活には否定できない証拠があるのだから、混乱してしまう。

 そこで、復活について別の考え方をしてみることにした。確かに、ローマ兵によって厳重に守られていた墓が空だったことが当時の人々によって確認されていたようだが、それだけではイエスだけが神だということにはならない。死んだ人が生き返ったという話は他でもきいたことがある。仮死状態だったのが蘇生したのだろう。それで、その人が神だとは言えない。世界中には他にも理解できない事がたくさんある。当時の人々が、死んだ人が生き返った不思議な出来事を知って、短絡的にイエスが神だと言い始めたのではないのか。特にパウロという人物は、私たちを驚かせるような教えをたくさん書いている。イエスが神であることをはっきりと教え始めたのもパウロだと聞いているが、福音書ではイエスは不思議な力を持った偉大な人物として表現されているだけだ。だから、数々の力強い行ないや教えと不思議な出来事を総合してみると、イエスは神であると言うよりもむしろ、偉大な人物として受けとめる方が分かりやすい。それなら私も認めることができる。しかし、イエスが神であるとはどうしても信じられない。地上で生活していた人間が神であるとどうして信じられるのか。復活についての全ての証拠や議論によって、迷信のような信仰を導き出すことが私には納得できないのだ。キリスト教は神が三位一体であると教えているが、神の一部分が天におられ、他の一部分はイエス・キリストとして人間となって地上で生活をしたというややこしいことを教えないで、「イエスという偉大な人物が偉大な力で人々を助け、信仰をはげまし、殺されたと思ったが息を吹き返したので、大勢の人々に尊敬され慕われたのだ」と言うのなら、私にも納得がいくのだが、その人が神だったとはどうしても信じられないのだ。どう思うかね。

 愛をこめて。

父より

人間なのに、その人が神であるなどとどうして言えるのか ― に答えて

 愛するお父さん。私たち家族はみんな元気でやっています。

 過酷な百キロマラソンの準備は毎週続いています。上の子どもたちは気が向いた時だけ時々私と一緒に走ることもありますが、またすぐにやめてしまいます。ところが末っ子のネイタンは、完走した人がもらえるリボンが欲しくて一生懸命走るまねをしていました。そこで、私は大会役員の一人に頼んで、4歳の息子にトラックを半周の200メートルだけ走らせてやってくれないかと頼みました。役員は快く承知して、わざわざ正式なスタートラインに立たせてくれました。ネイタンはオリンピック選手にでもなったつもりで真剣に走りましたが、半周地点がどこか分からなかったらしく、どんどん走り続けてしまいました。小さな男の子が一生懸命走っているのを見た観衆が声援をおくりました。ますます得意になったネイタンはふらふらしながらとうとう最後のコースまで走り続けてしまいました。観衆は総立ちで拍手を送り、役員の一人が紙テープを出して来て、ゴールに張りました。それを切ってゴールインしたネイタンの満足そうな顔、役員の一人が特別に一等賞のリボンをネイタンの胸につけてくれました。あんなに誇らしそうな顔の息子を見たことがありませんでした。

 ところで、お父さんはどのような形にせよ、一応イエスの復活は認めるのですね。けれどもイエスが神であることは認められない、それは、パウロが言い始めた迷信にすぎないと言うのですね。しかし、それは違います。その理由を申し上げます。

 確かに、福音書ではイエス自身が「自分は神である」とは言ってはおられません。けれども、良く注意して読むとそれと同じ意味のことを何度も言っておられるのです。「わたしを見た者は父を見たのです。」「わたしと父は一つです。」当時のユダヤ人の教師であるラビは決してそうは言いません。また、イエスは「わたしを信じなさい」と言って、ご自分を信仰の対象としておられます。「わたしを信じる者は、わたしを遣わされた神を信じているのです。」とも言われました。「神のために迫害される者は幸いだ。」とは言わず「わたしのために迫害を受ける者は幸だ。」と言われました。疑い深いトマスがイエスに出会って「わが主よ、わが神よ」と言って、イエスを礼拝したときも、それをお止めにはなりませんでした。

 ユダヤ人はどんなに尊敬していても、決してその人を礼拝したりしません。それは大きな罪を犯すことになるからです。イエスが神であると信じたので礼拝したのです。

 福音書は、死者が復活したのでその人は神である、とは言っていません。数々の力あるわざと奇跡と愛の教えによって、神から遣わされた救い主であることがすでに明らかだったイエスが、死と復活によってそれを確かなものとなさったのです。

 仮死状態の人が蘇生したのならその人はまた死にます。しかし、イエスの体はどこにもなく誰も知りません。イエスほどの人物の墓なら誰もが知っているはずです。けれども、そのようなものはどこにもありません。イエスは人となって来られた神であり、大勢の人々が見ている前で天に帰られたからです。このように、イエスの復活は神の人間性と神性の両面が歴史上に表われた出来事です。

 そこで、人であられたイエスが神であるという、三位一体の教理を、正しく理解していただく必要がありますので、次の手紙でそれを詳しく説明させてください。

 愛をこめて。

グレッグより