祈りの家族への手紙:2015-03


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 数百年に一度しか起こらないという大きな災害から4年が過ぎました。大勢の方が犠牲になり、今も、被害の苦しみを負いつつ生活しておられる方は数えきれません。心が痛みます。けれども、それを元に戻すことは誰にも出来ません。ただ、多くの方々が「私は何をしてあげることができるのでしょう。」と考えるようになりました。それは素晴らしいことだと思います。大きな悲劇を元に戻すことはできなくても、そこから生まれて来た、今までにはなかった良いものに目をとめるようにしましょう。

 私はずいぶんと長い間、自分が死んだ後の世界が存在することが信じられませんでした。死は全ての終着駅で、その先には何も存在しないと思っていたからです。そう考えると、死というものは何もかも終わりにする、なんと恐ろしいものだろうと思います。ですから、自分がいなくなった後の世界が続くことがどうしても考えられなかったのです。けれども、永い間生きて来て、「自分が存在しなくてもこの世界が続いてもいいのだ」と思えるようになりました。それは、イエス・キリストの復活が自分にとって身近なものと感じるようになったからです。復活はただ単に信仰の教えの一つと言うだけではありません。誰の人生にも深く関係のあるものです。

 今年も、イエス・キリストの復活を記念するイースターが近づいています。今年のイースターは4月5日です。

 神の子イエス・キリストの誕生と十字架による死は、ただ単に聖書が教えている中心的な教理というだけではありません。それは人類の歴史上に実際に起こった特別な出来事です。万物の創造主である神ご自身が、塵にも等しい小さな私たちと同じ姿になって現われてくださり、人類の歴史に直接関与してくださったのです。私たちがこの地球上に創造されたままで、いつまでも放っておかれているのではなく、今も私たちを心にとめて愛してくださっていることを知らせてくださいました。それでも、人はこの方を真剣に知ろうとも受け入れようともしないのでしょうか。

 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1章11節)

 そこで二つ目の出来事が歴史上に起こりました。それがイエス・キリストの復活です。

 イエスは私たちと同じ姿となって、私たちの目線で地上を歩まれました。そして、私たちの苦しみを理解し、その根源である罪を取り除くために十字架の上で死んでくださいました。けれども、それで終わりではありませんでした。私たちの罪を赦し、苦しみを取り除くだけでは本当の解決にはなりません。人はまた罪を犯し、苦しみを招いてしまうことでしょう。けれどもイエスは死からの復活によって、私たちを全く新しくしてくださるのです。

 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。

 わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネの福音書14章19節)

 イエスは私たちをこの世と区別しておられます。イエス・キリストに属する者はこの世に属するものとは違うということを示唆しておられるのです。私たちはイエスのように生きることによって、イエスのように死から復活し、イエスのように神とともに永遠のいのちを生きるのです。

 あなたは今、与えられたいのちをイエスのように生きようとしているでしょうか。この世に属する人々のように生きているのでしょうか。イエスのように生きることには苦難があるかもしれません。特に、イエスご自身は誰も経験したこともないような困難を経験なさいました。私たちには失敗もあり、恐れもあります。逃げ出したくなることもありますが、大きな喜びも栄光もあることを忘れてはなりません。イエスのように完全に使命を果たすことは私たちには出来ません。

 ただ、あなたがイエスのようになろうと努めることを神は見てくださっています。そこが大切です。なぜなら、この世に属していない私たちは、この地上のいのちと生活が目標ではないからです。今しばらくの地上の営みも私たちの人生の大切な一部分ですが、それはもっと大切な復活と永遠のいのちへの備えであり、リハーサルの時だからです。

 イエスは愛をもって人々に接し、柔和な心で励まし、困っている人々を助け、病人を見舞い、癒しの手を差し伸べてくださいました。イエスに似たものとなることはそれを見習うことです。それをあなたの家庭から始め、周りの人々に広げ、キリストの香りが社会全体に漂うように努めるのです。その時、主は『よくやった。良い忠実なしもべだ。私と共に御国を受け継ぎなさい。』と言ってくださることでしょう。それはあなたが思っているほど難しいことではありません。なぜなら、

 第一に、私たちは、もともと神の姿に似るように造られているからです。

 第二に、聖書からイエスを手本として、その生き方を学ぶことが出来るからです。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章29、30節)

 私たちが地上でイエスに学び、イエスに似た者となるという大きな宿題を、希望と喜びをもって行なうことが出来るのは、イエスと共に復活にあずかるという約束があるからです。

 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネの福音書6章40節)

 人類の最後の敵である死を克服するためには、世界中の大学病院が長年かけた研究の成果としてもたらしてくれるかも知れない特効薬を空しく待つ必要などありません。イエスに学び、イエスのように生きることに努め、イエスの復活を自分のものとして心に受けとめるなら、イエスと同じ復活のいのちにあずかることができるからです。あなたにとって、死は終わりではなくなります。

 人は死ぬことが定められていて、誰一人死を逃れることは出来ません。ですから、この世のものだけに希望をつないでいる人にとって死ほど恐ろしいものはありません。けれども、神は人を死ぬためにお造りになったのではありません。神を信じる人にとっては、死は永遠のいのちの始まりに過ぎないのです。

 痛みや苦しみに満ち、心配ごとに溢れた世界においてさえ、多くの素晴らしいものを与えてくださっている神が、その世界の中心においてくださった私たちのいのちをそれだけで終わらせるはずがありません。私たちは神の恵みをまだ十分には受け取っていません。もっと良いものはまだこれから始まるのです。イースターがそれを約束しています。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族

桜井 剛