祝福のメッセージ:2015ー03

Part II-Correspondence17
No.201503 

クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

 

人間なのに、その人が神であるとどうして言えるのか ― に答えて(その2)

 愛するお父さん。

 イエス・キリストの復活と神性とはちょうどコインの両面のようです。イエスが神であることを表すものとして、どちらもなくてはならないからです。しかし、それをことばで説明することは簡単ではありません。そこで、福音書の記録を思い起こしながら一緒に考えてください。

 福音書は「イエスは神である」と、ことばではっきりと宣言している個所はわずかですが、記録されていることを注意して読むと、多くの箇所で当時の人々がイエスを神として受け入れていたことが分かります。特に、ヨハネの福音書では冒頭から、「ことばは神であった」と言い、イエスを神としています。

 お父さんは「神が人となって顕われることは信じられない不可能なことだ。」と言われますが、単純にそう結論付けることが出来るのでしょうか。

 また、「神であるなら、人ではあり得ない。人であるなら、神ではない。」という単純な議論で済ますことの出来る課題なのでしょうか。

 私たちはそれほど神のことを完全に知っているとは言えません。また、人のことを完全に理解してもいません。全ての人が、自分がどこから来てどこへ行くのかを知ったうえで生きているのではないからです。

 私たちが神について客観的に知ることが出来るのは、神から啓示されことだけです。それ以外は私たちの想像の産物です。ですから、神から遣わされたイエス・キリストこそ、神と人との根本的な性質を知る原点なのです。「神が人となって顕われる」ということが、お父さんに信じられないのは、多くの人々がそうであるように、神と人とが両立しないと思い込んでいるからです。

 科学の世界ではそのような現象は常に起こっています。たとえば、光と物質とは全く違った性質を持っているため別物だと思われていました。けれども、実験的には、原子の世界では、物質が光と同じ性質を持っていたり、光が物質と同じ性質を現わしたりします。「光が物体であり、物体が光である」などとは信じがたいことですが、量子力学の分野では常識であり、科学者たちはそれを事実として認めています。

 以前、お父さんがおっしゃっていた、三位一体の教えも、聖書の神観を神学的に表現したものです。聖書が直接的に三位一体ということばを使っているわけではありません。「三つであって実は一つである」という、数学では成り立たないことを聖書の記述の中から導き出したのです。今ではほとんどの人が認めています。

 間違ってはいけません、「神の性質の一部分が人であり、他の部分が神である」と言う考え方ではありません。完全に神であると同時に、完全に人であり、聖霊として私たちの心に住んでくださるのです。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる内住の神は、三体の神でも、分身でもなく、ただお一人の完全な神です。

 神を知ることは知性によって理解することではありません。私たちが神を知るということは信仰によって受け止めて前に進み、それによってより深く神が分かるようになり、私たちの人格の全てを通して神に近づくことです。

 イエスが神であるということができる根拠をまとめると次のようになります。

 初期の頃のクリスチャンたちはユダヤ人が多く、ユダヤ教的な聖書観を教えられていました。それによると、唯一の神以外を礼拝することは決してあり得ませんでした。それは死に値する重大な罪であると旧約の律法で禁じられていました。それにもかかわらず、イエス・キリストがメシヤとして現われてからクリスチャンとなった人々は、イエスを約束のメシヤすなわち神から遣わされた救い主として受け入れ、神として礼拝するようになりました。当時のクリスチャンたちは人間イエスがどのように神であるのかを論じることをしないで、心で受け止めて完全に理解していたので、律法の教えにもかかわらず、イエスを神として礼拝することが何の心配もなく出来たのです。

 もう一つの点は、人間としてお生まれになったイエスが死者の中から復活なさったことが事実として確かめられたことによって、死者の中から復活したイエス・キリストは神であることが証言され、伝えられていきます。イエス・キリストが神であるからこそ人類の罪を贖うために十字架で死に、復活によって永遠のいのちを保障することがお出来になったのです。このように、イエス・キリストの復活と神性とは、相互にそれを保証し合っています。コインの両面であると言ったのはそういう意味です。

 イエス・キリストは父なる神と同様、まぎれもなく神ご自身です。また、「父から遣わされる助け主」とイエスが言われた聖霊も同様に神です。それでも神は唯一です。

 私たちはそれを盲目的に受け入れているのではありません。知識や訓練によって導き出した結論として理解しているのでもありません。数々の事実と証拠から、信仰を働かせることによって、常識や知識を越えたところにある真理として理解しています。

 ですから、三位一体の教えは決して矛盾する教えではありません。理解しにくいのは確かですが、福音書に裏付けられた証言を信仰によって受け止めているのです。

 キリスト教会は初期の頃から、使徒信条(使徒の教え)として、礼拝ごとに「唯一全能の神を信じます。神の独り子イエス・キリストを信じます。聖霊なる神を信じます。」と告白しています。

 お父さん、信仰は理屈ではなく心です。どうかイエス・キリストに向けてお父さんの心を開いてください。

 愛をこめて、

グレッグより

 

使徒信条(参考文書)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、
身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず。アーメン。