親愛なる祈りの家族の皆様。
今年も美しい色々な花が咲き始め、緑の若葉にいのちの息吹を感じる季節になりました。これが復活の約束を思い起こさせるイースターの季節です。今年のイースターは4月5日でした。
イースターはイエス・キリストの復活を記念する日です。けれども、それはイエス・キリストの復活を記念するだけではありません。私たちの復活を確認する時でもあります。
イエス・キリストは死から復活することによって、死の力を打ち破ってくださいました。イエス・キリストと共に復活にあずかる私たちには、もはや死は何の力もありません。これが、イースターのメッセージです。
イエス・キリストは私たちの身代わりになって十字架の上で死んでくださいました。それによって、私たちの罪は全て償われました。これが十字架のメッセージです。
人類の最大の敵である罪と死はこのようにして私たちから取り除かれたのです。
罪は世界を恐怖におとしいれているテロリストたちの残虐な行為や、無力な老人をだます詐欺や犯罪のことだけではありません。それらは罪の結果であって、それを引き起こすのは罪の力です。それは私たち一人ひとりの中にも潜んでいます。私たちは殺人をしないかも知れませんが人を憎むことはあります。盗むことはしないかもしれませんが欲しがります。
「人を殺す者はさばきを受けなければならないのと同じように、兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければならない。」とイエスは言われました。(マタイ5章21、22節)
罪は神の知恵よりも自分の知恵に頼り、自分の願いを優先させ、自分の正しさを通そうとします。人類は神に背き、全ての正義や知恵について神を信頼しない性質を持ってしまいました。正義を行なってくださる神の手に任せ切ることが出来なくなっている人類は、しばしば自分の正義を振りかざしては争いを起こし、相手にも自分自身にも大きな損害を招いてきました。それは罪の力です。罪の力は人類を神の手から引き離し、罪の奴隷にしようとしているのです。罪の力はしばしば私たちの理性をくるわせ、私たちをイエス・キリストから引き離そうとするのです。
イエスには何の罪もありませんでした。誰ひとりイエスに罪を見出すことは出来ませんでした。イエスを裁いた総督ピラトも「私は、あの人に罪を認めない。」(ヨハネの福音書18章38節)と宣言しました。けれども、罪のないイエス・キリストが不条理なさばきによる十字架の死を受け入れてくださったのです。それは私たちの罪を贖うためでした。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53章7節)
今の世の中、自分の主張が通らないことがあっても不思議ではありません。思いがけない出来事もしばしば起こります。そんな時でも心の平安と喜びまで奪われてしまう必要はありません。正義を行なってくださる神の手に全てをおまかせしたイエスの姿に一歩近づいたと思えばいいのです。迫害の中の弟子たちもそうしました。
使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒の働き5章41節)
十字架のメッセージは言葉だけで伝えるものとは限りません。また、他人に伝えるだけとも限りません。イエスに習う行ないは私たちの罪が赦されていることに自分自身にも気付かせてくれます。
イエス・キリストの復活は私たちに何をもたらしているのでしょう。
イエス・キリストは神ご自身です。全てのものを造られた方です。ですから、ご自分がお造りになったものに対してどんなことでもおできになります。けれども、私たちはその被造物であって、自分に定められた死を打ち破る力などありません。
死ぬことは全ての人の定めです。誰ひとり死を逃れることはできません。けれども、イエス・キリストの復活は私たちに希望を与えてくれるのです。
復活と永遠のいのちの希望は、単に私たちの死後のいのちを約束しているだけではありません。「今は苦しいことがあるけれども、死んだらいいことがありますよ。」と言う単なる慰めの言葉ではないのです。復活のイエス・キリストを信じることによって、今の私たちの人生にも生きる喜びと何ものにも奪われない平安を持つことができるのです。それゆえ、今はまだ見ていないけれども、さらにすぐれた、完成されたいのちが確かなものであることを確信することができるのです。
これから先、医学が驚くような進歩をとげて、万能細胞の力で古くなった体の部分を補修したり、遺伝子組み換えによって体を若がえらせたりすることができるようになっても、死そのものをなくすることはできません。罪の結果として、死は避けられないのです。
子どもが悪戯をして何かをこわしてしまったとき、お母さんは赦してくれても、壊れた物はもとに戻りません。お母さんのいいつけを守らなかったことをどんなに悔いても、お母さんがどんなに優しく赦してくれても、結果として起こったことはそのまま残るからです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)
死ぬことは全ての人に定められていて、動かすことができません。神もそのルールを変えることはなさいませんでした。むしろ復活によって死を越えさせることをお選びになりました。ですから、復活は以前の古い状態に戻ることではありません。新しいいのちの始まりとなるのです。
イエス・キリストは私たちの罪を負って私たちの代わりに十字架で死んでくださいました。神はイエス・キリストを復活させることによって、罪の結果として全ての人に定められている死を乗り越えさせて、新しい命を与える道を開かれたのです。その約束は、私たちの今の人生をも変える力を与えてくれます。どんな困難の中でも喜びと平安を失わず、希望を持って生きることができます。
復活のいのちは、神の子イエス・キリストを信じる全ての人に神からの愛の賜物として無代価で与えられる永遠のいのちです。
あなたは愛されているからです。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛