Part II-Correspondence17
No.201504
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
なぜ神は、信じることを難しくしておられるのか
親愛なるグレッグ。
最近の世界では私がかつて疑問に思って悩んでいた問題をぶり返すような事が次々と起こっている。テロリストたちが大勢の市民を女性や子供の区別もなく虐殺しているのに、なぜ神は何一つ手をお出しにはならないのだ。もちろん、お前は自由意志や霊の闘いと言った神学的な議論をするだろう。しかし、街に出て行ってごく普通の庶民に聞いてみれば99パーセントの人は「自由意志とか、霊的なルールなどと言う面倒なことは言わず、「あの極悪人をただちに滅ぼしてしまえ」と言うに違いない。そうすれば、神は大きな犠牲を払ってまで人類を救う必要はなくなるのではないのか。なぜ神はごく普通の人の多数意見に耳を傾けてくださらないのだ。これはすでにかたづいた議論なので、ぶり返そうとは思わない。復活やイエスの神性についてもお前の説明はよく分かった。というより、否定できない証拠があり、私にはそれ以上反論もできない。けれども、正直言ってお前の議論はますます私に新しい疑問をもたせる。なるほどと思わせる反面ますます信じることを難しくさせているような気がする。なぜ神は私たちに信仰によって受けとめることを求めているのか。なぜ、数々の証拠を見え隠れさせて、信仰によって受け入れることを求めるのか。なぜ、ご自分をはっきりと見せて、まぎれもない証拠によって私たちを説得しないのか。
天国に行くためには蛇がエバを誘惑したとか、海が分かれて道が出来たなどと言う奇跡をどうしても信じなければならないのか。処女が身ごもったことや、大魚が預言者を生きたまま飲み込んだとかいうことを信じなければならないのか。それなのに、誰にも否定できない証拠をあちこちに見せているので、おとぎ話として捨て去ることもできない。否定出来ない真理か、おとぎ話かのどちらかであったなら、私の決断はもっと簡単だったに違いない。
もし神がおられ、私たちに信じさせたいのなら、誰も否定できない証拠を突きつけて全ての人を一度に信じさせることは、神にとっては簡単なことではないのか。
お前の議論は確かにはっきりとしていて否定することが出来ないが、なぜか、次から次へと疑問が湧いてくる。その上、最近では私の頭の中はそのことばかりを考えるようになって、少しずつ光に向かっていると言うよりもむしろ、ますます、疑い深くなって、お前が期待しているような楽観主義からは遠のいていくような気がする。
なぜ神は、信じることをこんなに難しいことにしているのか。
愛をこめて父より
なぜ神は、信じることを難しくしておられるのか ― に答えて
親愛なるお父さん。
私もテロリストたちの悪行には怒りを禁じ得ません。けれども、神の力で彼をただちに滅ぼすべきだというお父さんの神学には賛成できません。彼らの悪行に怒ってもかまいません。
彼らの背後にある悪の力を非難しても良いのです。 (けれども、そのような悪を生み出す背景はアメリカにも他の国々にもあることを忘れてはなりません。)しかし、助けを求めて祈ること以外に、神の名前を持ち出すことには賛成できません。神はすでに彼らの悪行を知っておられ、誰にもまして正義と平和を重んじるお方だからです。お父さんの怒りを神に向けるのではなく、人間の中に潜む罪の力に対して向けて、神に祈る人になってくださったら、どんなにうれしいことでしょう。
さて、お父さんの質問に戻りましょう。お父さんの正直なことばにはいつも感謝しています。また、私との議論を真面目に受け取ってくださっていることにも感謝します。お父さんが私との議論を軽くあしらっているような印象は一度も感じたことがありません。私はどんなことにも真剣に対応するお父さんを尊敬しています。
お父さんがイライラする気持ちは大変よく分かります。同情する半面、それはむしろ良い兆しだと思っています。なぜなら、人は長年持ち続けていた習慣や基本的な考えが変わる時にはそのようないらだちを経験するものだということを知っているからです。お父さんが長い人生で培ってきた世界観や信念が分かれ道に立たされているのです。それは心理学者たちが言う「思想の不安定状態」です。慰めにはならないかも知れませんが、私にはその気持ちがよく分かります。以前お父さんにお話ししたことがありますね。ミネソタ大学の天文学の講義の後で、駐車場まで歩いていたときのことでした。万物をお造りになった神の存在が心に迫って来て、否定しようにもしきれず、かといって、簡単には受け入れることができずに何か月も心の中で戦っていた時でした。とても苦しい経験でした。けれども、そのような経験はただ一度だけではありませんでした。大学院のときも同じような経験がありました。やはり、新しい証拠に直面して自分の信仰が試される時でした。盲目的には信じることのできない私は何度もそのような葛藤を経験してきました。今思うと、そのような苦しい戦いが、私の信仰の土台をしっかりと築くことに大きな助けとなっていたことが分かります。信じることは私にとっても決して簡単なことではありませんでした。
お父さんは、「神がもっと分かりやすいはっきりとした証拠を見せて信じやすくしてくれればこんなに悩まなくてもいいのに」と言われましたが、神は歴史の中で何度もそうなさいました。けれども、人はすぐにそれを忘れて、当たり前と思うようになって神を忘れてしまいました。旧約聖書からイスラエル民族の歴史を見ればそれがよく分かります。それだけではありません。新約聖書の時代にも、キリストの弟子たちの間にさえ、そのようなことがありました。イエスは何度も奇跡としるしによって神の栄光をお示しになりました。それでも人々はイエスを十字架にかけたではありませんか。弟子たちも、いのちをかけてそれを止めようとはしませんでした。
人はどんなに大きな奇跡や不思議なことを見せられても、「偶然だった」とか、「そう見えただけだ」と言って、何とか合理的な説明をして、そこから神の存在を追い出そうとするものです。
信じることを難しくしているのは、お父さんがおっしゃるように神のせいではなく、人間の側にあるのです。
素直な心で神の愛を感じようとすれば、信じるべき確かな証拠がたくさん見えてきます。批判や否定をしたいと思う気持ちをおさえて、イエス・キリストが神であることを思い、その生き方、人への強い愛、十字架と復活、それらを素直な心で見れば、信じることは決して難しいものではないことが分かります。神は決して無理強いはなさいません。決断は常に私たちの側に委ねておられます。
限りない愛と祈りをこめて、
グレッグより