親愛なる祈りの家族の皆様。
聖書は「互に愛し合いなさい。」と教えています。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15章12節)
人を愛することは簡単なことのように思われますが、時としてはとても難しいことがあります。厳しい競争原理の社会の中で「人を押しのけてでも何とか生き延びなければならない」と多くの人があがいています。若者も老人も、生存競争の厳しさにさらされて、自分が生きることで精一杯です。それゆえ、多くの人が人間関係の難しさに悩むのです。人と人とが互いに思いやりを持って助け合い協力して困難を乗り越えていくのが本来の姿だったはずですが、かえって人との関係そのものが悩みの原因となることが多いのです。人々はますます自分中心的になり、孤独になっていきます。いじめがあり、虐待があります。孤独な老人においしい話を持ち掛けて老後の蓄えを奪っていく詐欺師たちが後を絶ちません。それでも、私たちの救い主であられるイエスは「互に愛し合いなさい。」と言われるのです。そんなお人好しに徹してこの世で生きていけるのでしょうか。いけるのです。いつも申し上げていることですが、イエスの戒めは「私たちを豊かに祝福するための教え」です。賢く、注意深くその教えを守る者は最後には勝利者となるからです。
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(ヨハネ第一の手紙5章3、4節)
人を赦すことも、自分を低くして人に仕えることも、心を貧しくして、人々を受け入れることも、敵を愛することさえも、全て私たちの益のためにイエスは言われたのです。あなたの敵に見方しておられるのではありません。
人を嫌い憎むことも、人をだましたり害を加えたりすることも、人のものを奪うことも、人を苦しめることも、思いわずらうことも、必要以上に心配することも、私たちに益をもたらしません。神を愛し、人を愛し、互に愛し合うことこそ、自分にも周りの人にも良い関係をきずく秘訣です。
イエスは「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」と言われました。(マタイ6章14節)
赦すことは、その人を自分の基準で批判したり決めつけたりしないで、そのまま受け入れることです。人を赦し、人のことを思いやることによって、私たち自身も温かい扱いを感じ取るのです。
先日、私はアメリカ人の友人と東京駅近くの事務所を訪ねることになりました。あらかじめ地図で調べておいたのですが、田舎者の私は東京駅を出た時からもう分からなくなってしまいました。そこで、なるべく迷惑にならないように気をつけて、たばこを吸いながらたむろしていた3、4人の男性に尋ねると、意外に親切で丁寧に目的地近くを教えてくれました。念のために建設工事場の警備を退屈そうにやっていた、若者に尋ねると、熱心に分かりやすく教えてくれました。外国人と一緒だったこともあって思いのほか皆さんが親切で喜んで教えてくれました。大変うれしかったので帰りのバスの中で、小さな子供を連れたお母さんに席を譲ろうとしたところ、笑顔で感謝されましたが丁寧に断わられました。私の方が席をゆずられる年寄りだったことを忘れていたのです。
私たちが平和でおだやかな毎日を過ごすためには、自分の方から心を開いて隣人と仲良くするよう心がけることがとても大切です。誰でも、年をとるごとに人の世話になることが多くなります。その時、「この人の役に立ててよかった、この人を助けてあげて良かった」と思われる謙虚な老人になりたいと思いました。人の親切は感謝して受け取るだけで相手に喜びを与えることになります。
けれども、現実にいやなことに直面したり、意地悪や迷惑を何度も受け続けたりすると、平静を保つことが難しくなることも理解できます。聖書はそんなときにも平静に対応出来る秘訣を教えています。自分が何回我慢しているかを正確に数えてみるのです。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18章21-22節)
私たちは2、3回続けていやなことをされただけでも、我慢出来ないことが多いのです。ペテロはイエスに「何度まで赦すべきですか」を尋ねた時、「7度までですか」と思いきった数字を示したつもりだったに違いありません。私は7度まで赦すほどの忍耐を持っているでしょうか。考えてみると、自分の子どもに対してですら、それほど忍耐しなかったのではないかと恥ずかしくなります。赦すこと、理解すること、忍耐することはそれほど難しいことなのです。それなのにイエスは「七度を七十倍するまで」と言われました。490回です。それは回数ではありません。私たちが人を赦していないということを自覚するためです。
多くの人が、隣人や友だちとの関係に悩んでいます。家族の間でさえ人間関係がうまくいかずに悩んでいる方が大勢おられます。家族だからこそわがままになり、関係を難しくする事もあるのかも知れません。どのような理由があるにしても、人間関係を良いものにすることは自分の人生を楽しくするだけでなく、自分の思いを正しく相手に伝える上でとても大きな力になることを心にとめていましょう。
自分が変わることによって、今まで困難だと思っていたことがかえって益となって働くのです。「あのいじ悪で、いやな隣人の心を改めさせて、もっと良い人に変えてください。」と祈る前に、先ず私たちの方が、その人を愛し、その人にも喜ばれる者になれるよう祈ってはどうでしょう。
人を赦しましょう。相手の気持ちを理解することに努めましょう。神の助けによってあなたにも私にも、それはきっとできます。そうすれば、私たちも理解されるようになり、人とのかかわりも楽しいものとなり、毎日が喜びと平安に満ちたものとなることでしょう。
あなたは愛されているからです。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛