祝福のメッセージ:2015ー05

No.201505 
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

なぜ、聖書は神の霊感を受けて書かれたものだと信じられるのか

 親愛なるグレッグ。

 お前には悪いが私は聖書に対して持っている疑問をそのままにしてはおけない。お前の説明は、私が聖書に書いてあることに対していだいている疑問に答えてくれていない。聖書の記述が真実かどうかにキリスト教の全てがかかっているものと私は思っていた。それなのに、お前は聖書に対する私の疑問はさておいて、まず、イエス・キリストが救い主かどうかに重点をおいて考えるように主張して来た。聖書の中には私には到底信じられないようなことがたくさん出てくる。だから、私の頭の中では、救い主を信じるならば、まだよく分からない聖書の中の物語も一緒に信じなければならないのかという疑問が起こる。

 お前が説明している、イエス・キリストを信じることの大切さはよくわかっても、一方では、聖書に書かれている数々の意味不明な物語や納得がいかない記述が私の心にかかっていて、たとえ信じようと思っても信じられないのだ。

 もう一度聞くが、蛇が人間に話しかけたとか、クジラが預言者を生きたまま飲み込んだとか、海が二つに分かれたとか、サムソンの髪の毛がもと通りに長くなったら超人的な力が回復したなどと言うことを信じられると思うのか。それでも聖書は神の霊感を受けて書かれたと言うのか。イエスがどのような方かはお前の説明でよく分かるが、聖書の中の信じられないような出来事が邪魔になって一歩踏み出せない。今のところ、それが私にとっての最大のさまたげになっている。それに対するはっきりとした答えを聞かせてほしい。

 真実の愛をこめて、

父より

 

なぜ、聖書は神の霊感を受けて書かれたものだと信じられるのか ― に答えて

 親愛なるお父さん。

 疑い深いお父さん、そのまじめさに心からの敬意をおくります。

 マラソン大会は3週間後に迫っています。私たちは練習のために友だちと一緒に町と町の間を走ることによって当日のために体を慣らすことにしています。その後で、ゆっくり大会に備えます。結果は後でお父さんにもご報告します。

 さて、どうしても聖書の疑問をはっきりとさせたいようですね。私がそのことを後まわしにして、イエス・キリストが救い主かどうかという大切な点に注目してほしかったのは、その疑問に答えられないからではありません。確かに聖書の記録を吟味することは大切なことですが、そこに書かれている救い主を信じることの大切さに比べれば、さほど大きな問題ではなく、難しいことでもないからです。イエス・キリストを救い主として信じるかどうかが、クリスチャンの中心課題であって、そのことを抜きにしては、全ての議論は単なる歴史や考古学の課題であり、学問の一つになってしまうからです。

 私にとって、「聖書が神のことばである」という事実は、イエス・キリストが救い主であることを信じた結果として、はじめて成り立つものだからです。その意味をもう少し詳しく説明します。

 私が自由主義思想を土台とした教育を受けていた間は、私もお父さんと同じように聖書は人間の手によって書かれた書物だと思っていました。作り話のような物語があり、説明のつかない記述や明らかに考古学的な事実に反すると思えるような記録さえあります。けれども、「聖書が神のことばである」という主張に何度も引き戻されたのです。今まで持っていた疑問が解決したからでも、新しい事実が判明したからでもありません。「聖書が神のことばである」と信じるべき理由は、そこにイエス・キリストが人となって来られた全能の神であると書かれているからです。私はそのことを中心にして今までの手紙を書いてきました。

 そのように見ていくと、福音書に書かれていることの全体がイエスに関する歴史的な事実を書いているものであることがはっきりとしてきます。その結果、イエス・キリストは肉体を持ってこの世に来られた神であることが理解できるのです。そうであれば、イエスが神について教えておられる中心的なことには間違いがないことが分かります。さらに、イエスは旧約聖書の記録を神のことばとして扱っています。旧約聖書の記録の中にイエスご自身について書かれていることを読み取って教えておられるからです。

 イエスが神のことばとして引用しておられる聖書を神のことばと信じないで、どうしてイエスを主として信じることができるでしょう。

 聖書の教えを完全に理解することは難しく、私にもまだ説明のできないことがたくさんあります。ですから、先ずお父さんにイエス・キリストが主であることを数々の証拠によって示して来たのです。

 知識というものはいつでも、既に知っていることから始めて、未知の領域へ、あるいはすでに明からなことから始めて、まだよく分からないところへと進むものだからです。お父さんには「イエスは主である」という明解な事実から、不明解で難しいけれども大変重要な神のことばである聖書へと理解を深めていただきたかったのです。

 それだけではありません。神のことばでなければ伝えることのできない預言的な記述が聖書の中には溢れています。たとえば、数百年もの長い年月を経て何人もの異なった文化や言語を持った記述者によって完成したにもかかわらず、聖書の本文は、人類の救い主であるメシヤ(キリスト)が来られるという一貫したテーマによって終始しています。そのような書物が他にあるでしょうか。そのような重大な事実に比べれば、お父さんが指摘しておられるような疑問は大きな問題ではないし、ほとんどが説明のつくことです。

 どうしてもそのことがお父さんの疑問の中心になっているようですから、聖書の記事をいくつか取り上げてそれに対する答えを説明します。さらに、聖書が神の霊感を受けて書かれたものであることを裏付ける「預言の成就」についても知っておいていただきたいので、この次の手紙でご一緒に聖書を開いて学びたいと思いますがいかがですか。きっとよく分かっていただけると思います。

 限りない愛と祈りをこめて、

グレッグより