祈りの家族への手紙:2015-06


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 美しい景色を見た時や素晴らしいことに出会ったとき、その感動を他の人にも伝えてあげたいと思うことがありませんか。自分だけで味わうのはあまりにももったいない、と思うからです。けれども、その感動をありのまま伝えることはそう簡単ではありません。それは画家や音楽家たちの永遠の課題だったことでしょう。

 私の友人は「それは映画や小説でも同じだ」と言います。作者が感じている大切なことを、何とかして他の人にも感じてもらいたいと思っていることが、小説や映画の中から伝わって来るのです。

 私たちが人物や情景を表現するとき、それがどんなに美しいものであっても、実際に見ているものと全く同じものを伝えることは出来ません。どんなに高性能のカメラを使っても、実際に目で見た通りの美しさや感動をそのまま再現して伝えることはそう簡単ではないからです。その上、同じものを見ても、見る人によって感じ方が違うからです。

 けれども、それを見た人が、顔を輝かせ、息をはずませて自分が見たものを伝えようとしている姿を見て、それがどんなに素晴らしかったかを想像することは出来ます。実際には自分は見てはいないけれども、それを見た人を通して、その美しさや感動が伝わって来るからです。

 子どもたちがまだ幼なかった頃、よくパパやママの顔を書いてくれたものです。その絵は実際の私たちにはあまり似ていない顔でした。けれども、そのとき彼らが見ていたのは、まぎれもない本物の両親の姿です。私たちは今もそれを宝物のようにしています。彼らが見てくれていた私たちの姿をいつまでも忘れないためです。

 孫たちも同じように、誕生日などに学校で書いた私たちの絵を送ってくれました。それも、言われなければ誰の顔か分かりません。孫たちも大きくなってしまって、もうそんな絵を書いてはくれませんし、送ってもくれません。

 「描いて」とたのめば、今ではきっと誰が見ても分かるような似顔絵を上手に描いてくれることでしょう。けれども、私たちはそういうものを願ってはいません。

 私たちは神のお姿をどのように表現することができるでしょうか。その姿を他の人に知ってもらうためにどのように表現したらいいのでしょう。上手に表現できる人もいれば、あまり似ていない姿にしか表わせない人もいるかも知れません。けれども、それでもいいのです。自分が感じたままを、感じた通りに心を込めて表わすことが大切だからです。

 あなたがどのように感じ、受け止め、感動しているかをそのまま伝えることです。それによってあなたの愛と熱意が相手に伝わるのです。

 有名な演奏家によるコンサートと子どもたちによる発表会とでは感動の伝わり方が全く違います。上手下手には関係なく、全会衆が感動を受けとめて、居眠りをする人などひとりもいないのはどちらだと思いますか。

 「私はイエス様のことを上手に話せないから人に伝えることは出来ません。」と言う方がおられます。それは完璧な似顔絵を描いて見せなければいけないと思うからです。あなたが知っていること、見ている通りの姿を自分にできるかぎりせいいっぱい伝えればいいのです。それ以上のことは誰にも出来ません。また、あなたが見たままの姿に何よりも大きな価値があるのです。どこかで見て来た聖画の中のイエスではなく、あなたの心に感じるままのイエスをあなたのことばや行ないによって他の人にも知ってもらえばいいのです。それが身近な人には一番分かりやすく伝わるのです。なぜなら、イエス以外に神の姿を自分の目で直接に見た人はひとりもいないからです。神の姿を完全に知っておられ、私たちに教えることがおできになるのはイエスだけです。

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1章18節)

 長年の信者は神の姿を上手に表現することが出きるかも知れません。神学者たちは誰にも論破できないような神の姿を定義することができることでしょう。熱心な牧師たちは誰にも良く分かるように神の姿を教えようとしています。それぞれが違った表現の仕方で、完璧には言い表せない神の姿をことばで伝えようとしているのです。どんなに上手に言い表せたとしても伝わったものは本物ではありません。けれども、伝える人の感じているものが本物である限りいつかは必ず伝わります。幼子が描いた父親の絵を見て喜ぶ父親のように、神はあなたが全力で表そうとしている神の姿をご覧になって大いに喜ばれ、満足なさるにちがいありません。見ているもの、描こうとしているものが本物である限り、どちらの心にも響いて伝わって来るのです。あなたが見ているのが本当の神である限り、どのように表現しても、どんな姿に描いたとしても、愛と思いやりによって心が通じている限りあなたの身近な人には必ず伝わるのです。

 イエスのことばに従ってシロアムの池で目を洗って見えるようになった盲人は、イエスのことをあまり知りませんでした。ただ、イエスが自分にしてくださったことを自信をもって話したのです。

 「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9章25節)

 あなたが心に抱いて見ておられる方は、今あなたが必要としている願い事を、あなたが願う通りに聞いてくださるだけの神なのでしょうか。それとも、あなたをお造りになり、あなたを愛し、あなたを生かし、あなたの喜びも悲しみも全て知って、あなたと同じように感じてくださり、全責任をもってあなたの人生を正しく導き、永遠のいのちを約束しておられるお方なのでしょうか。

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(コリント第一の手紙13章12節)

 今からでも遅くありません。あなたが求めておられる本当の神に近づき、あなたの心の目でしっかりと見つめてください。そして、そこから来る感動をあなたが感じるままにあなたが一番大切に思っている人に伝えてあげてください。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族

桜井 剛