No.201508
なぜ聖書はこんなに様々な解釈をされているのか
親愛なるグレッグへ、
最後の手紙は大変役に立ったよ。私が今まで持っていた大きな疑問や誤解をおおむね解いてくれた。しかし、まだ聖書の権威に関する疑問が残っている。なぜ神はもっとはっきりと聖書の権威を示してくれなかったのか。誰もが否定できないような方法で、人類に届ければよかったのに。いずれにしても、聖書が教会の産物ではなかったことが分かったことは良かったと思っている。しかし最近は、聖書が神のことばなら、なぜこんなに難しいのか疑問に思うようになった。お前には難しくはないかもしれないが。いずれにせよ、なぜ、こんなに多くの解釈の仕方がそれぞれの教派によって違っているのか疑問になる。アメリカだけでも、1200以上の教派があって、それぞれ独自の解釈の仕方をしていて、どれが正しい解釈なのか決めかねるではないか。お前のような神学博士でもない限り普通の人間にはどの解釈が正しいとは決められないはずだ。お前の考えを聞かせてくれ。子どもたちによろしく。
愛をこめて、
父より
なぜ聖書はこんなに様々な解釈をされているのか - に答えて
愛するお父さん、
クリスチャンにとって一番大きな問題点は、お互いの違いを指摘して、とやかく言うばかりで、相手を認めようとしないことです。イエスは生涯の最後にあたってこのように祈られました。
「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ17章21節)
確かに私たちクリスチャンは今も一つにはなっていません。そのことはイエス・キリストを救い主として世に伝えるための大きな妨げとなっていることも事実です。けれども、このような不一致は聖書解釈の違いだけが理由ではありません。そうではなく、教会の罪深さが原因です。
プライドを重んじて相手を尊敬する心の足りなさ、自分たちの権力を守ろうとすることに原因があるのです。簡単に言えば、クリスチャンも罪人なのです。
確かにこのことが神の働きを邪魔しています。けれども、それが役に立っている面もあります。これこそ神の深い知恵です。教会が聖徒たちだけの集まりだとしたら、誰一人そこに加わる資格がありません。罪人の集まりだからこそ、私もお父さんも誰でも教会の一員となれるのです。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(コリント第一1章27節)
例えば、アブラハムは「神の人」と呼ばれるほどに神に忠実な人物でした。けれども、自分の命を守るために二度まで妻を犠牲にしました。何という神の人でしょう。
また、ダビデは神の心に一番近い人と呼ばれていました。ところが、彼は他人の妻を奪い、その夫をわざと戦場に送って死なせ、その悪事を隠そうとしました。何という聖者でしょう。
イスラエル民族は神の選びの民と呼ばれていましたが、何度も神に背き偶像を拝み、神の掟に逆らうことを繰り返したため民族全体が路頭に迷いました。
そして、キリスト教会は今日のように分裂した姿を露呈しています。昔も今も神の前に完全な人は一人もいません。しかし、ここに神の愛が現われるのです。
神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた。
(ローマ人への手紙3章10節)
神は「全ての人は罪人である」という普遍的な真理を明らかにして、罪が増すところに神の恵みも増し加わることを示されたのです。それゆえ、アブラハムにも、ダビデにも、イスラエル民族にも、そして教会にも希望があります。天地創造以来の神のご計画である、神の恵み深さが人類の背きと罪によってはっきりと示されました。罪がなければ、神の恵み深さも示されません。人類の背きが大きいほど、それを赦し修復してくださる神の恵み深さと愛の大きさが全ての人に理解されることになるからです。今の時代に神は、罪深い教会を通して神の赦しと恵みの大きさを示しておられるのです。
教会の分裂の根本的な原因は、その罪深さによるのです。けれども、それだけが教派の違う理由ではありません。教派の違いをもう少し具体的に説明します。けれども、それはどの教会が正統かを判断する基準にはなりません。教会によって聖書の受け止め方が違うからです。
自由主義教会は、聖書を神のことばとはせず、全ての個所を人の知恵で自由に解釈します。
根本主義教会は、自由主義とは逆に聖書を歴史を越えて現代に適応する掟としています。
カトリック教会は聖書を様々な権威ある教えの一つとして受けとめ、教会の権威、法王の権威、教会の伝統と同等においています。
ギリシャ正教会もほとんどカトリックと同じですが法王の権威を認めていません。
福音主義の教会は根本主義と同じように聖書を神のことばと信じていますが、歴史を通して人類に語られた神のことばとして受けとめています。
こうした教会間の違いが、全ての教会を一つの一致した神の教会として融和させることを妨げているのです。お父さんもご存じのように、私は福音主義の立場に立っています。
ですから、聖書のことばをイエスがなさったのと同じように権威ある神のことばと信じています。なぜなら、私はイエス・キリストを私の救い主、私の主としているからです。
教派間の違いは、聖書の解釈が違うからというよりも、むしろ伝統的、習慣的な違いの要因の方が大きいのです。それによって聖書の教えを実践するする仕方も違ってくるからです。
例えば、聖餐式のパンと葡萄酒をキリストの体と血の象徴とするのか、それともキリストの体と血そのものとするかの違いになります。洗礼も、幼児の時に授けるか、それともイエス・キリストを信じた時に受けるかの違いも論点になります。また、教会は牧師または司祭を頂点として上から治められるべきか、それとも、信者全体の合意によって運営されるべきかの違いもあります。聖書はどの場合にも決定的な答えを示してはいません。それぞれの教会が自分たちの判断で聖書の教えを解釈しているのです。
けれども、それよりもはるかに大切なことは、聖書が一貫して教えている、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださった事実を信じることです。
聖書は教会の教義を定めるために描かれたものではありません。ですから、教会が統一した教義や式典を聖書から導き出せなくても不思議ではありません。同様に、聖書は私たちが抱く全ての疑問に答えるためのものでもありません。聖書がはっきりと伝えているのは、神の前に罪を悔い改めて、イエス・キリストを罪からの救い主と信じるなら救われるということです。
このことさえ同じなら、多少の違いはむしろ個性として大らかに受け止める方がいいのです。
ですからお父さんも先ず、イエス・キリストがお父さんにとってどのようなお方なのかを考えて、ご自分の決断をなさってください。そうすれば、全ての疑問は自然にはっきりとしてきます。
切なる愛と祈りをこめて、
グレッグより