No.201510
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
クリスチャンにならない人はみな地獄に行くのか
親愛なるグレッグへ、
他の宗教の教典についてのお前の説明は大変よく分かった。けれども、それは私が西洋に生まれ、多少聖書を知っているからだと思う。どんなに聖書の教えが正しくても、他の宗教の経典を信じている人は、それを信じるしかないのだ。それなのに、彼らは聖書の教えを信じていないので地獄に行くことになるのか。それは公平ではないと私は思う。
たとえ全ての人に自由意志が与えられていて、自分の意志で決心して信じなければならないとは言っても、大多数の人は自分たちの宗教しか信じる機会がないではないか。それなのに、キリストを信じない者は全て地獄へ行くと言うのなら、そのような宗教自体が信じられないではないか。「神は公平な方であるはず」という私の自論が、またしても持ちあがってきてしまう。
もし、罪人がこの世で救われる機会がないとすれば、永遠の世では決して救われないだろう。
そのことが、ただ、生まれた国が聖書を信じる国ではなかったという理由だけで、その人が地獄に行くという教えには到底納得がいかない。信じないものはみな地獄へ行くとすれば、それは神の愛に反することであり、キリスト教の教えそのものに問題があることになるのではないか。お前ならこの問題にきちんと答えてくれると思っている。
愛をこめて、
父より
クリスチャンにならない人はみな地獄に行くのか - に答えて
愛するお父さん、
お父さんはまたしても、重要で難しい課題を持ち出してきましたね。「もっと単純に信仰の決心をすればいいのに」といつも思います。けれども、お父さんの質問は適格で、大切な点をついていると思って尊敬しています。
まず、初めに言っておきますが、この質問は、とても大きな神学的な課題であって、福音主義の学者たちの間でも議論が分かれるほどの難問です。ですから、私のせい一杯の説明でもお父さんを失望させてしまうかもしれません。
私の議論はいつでも、良く分かっていることから始めて、まだ分からない分野へと進み、明らかな事実から始めて、まだ明らかではない分野へと進んで行く、というやり方です。
ですから、キリストを信じない人が死んだ後はどうなるのかという質問はまだはっきりとした結論がでていないことなので、先ずは、はっきりとしていることから議論を進めたいと思います。
こうした難題に取り組む場合は、私は5つの基本的な原理を当てはめることにしています。
第一は、もし、私が「聖書は神から与えられた特別な啓示の書である」と信じることができれば、その中に啓示されていることも私の理性を満足させるものであると信じることができます。
ですから、もし、私が信じていることに照らし合わせて、矛盾があるような教えは、神から来たものではなく人間が作り出したものだと言わなければなりません。
実際には、物事はもっと複雑で、私たちがはっきりと定義できなくても、神が関与しておられることは数えきれないほどたくさんあります。私たちの知性は限られていて、全てのことについて神が関与しておられるかどうかを区別することはできないのです。ですから、ほとんどのことは神の公平さと知恵とにお任せするしかありません。
したがって、私たちの目から見て不公平に見えることでも、神の目から見れば、正しい判断であるということもたくさんあります。そういうことに関しては、私たちは神の知恵と正義の判断にお任せするしかありません。
第二は、私は、神がイエス・キリストを通して明らかな姿で私たちに現われてくださったことを信じています。新約聖書に「私を見たものは神を見たのである。」(ヨハネ14章9-10節)とあります。ですから、たとえ旧約聖書の中に、怒りに満ちた神の姿が表わされていても、愛と裁き、どちらが本当の神の姿なのか、はっきりと理解出来るまではそのまま受け入れておくことにしています。さらに、地獄の裁きに関する神学も、理解できない部分がたくさんありますが理解出来るようになるまでそのまま受け入れることにしているのです。マルチン・ルターは「神の左手のわざ、と呼ぶべき、私たちには理解できないことである」と言っています。
第三は、お父さんが質問された課題に関係のあることですが、私はイエス・キリストの他には救いはないことを信じています。これは新約聖書の全ての記述と完全に一致しています。
「私を通してでなければ誰も父のもとに行くことはできない。」イエス・キリストによらなければ神の愛を知り、神を信じることはできないのです。これは救いに関する新約聖書の教えの一つで、「天下に、この人による外には救いはない。」とも教えられています。(使徒4章12節)
罪人はイエス・キリストの十字架により罪が赦されて、神の前に立てる者となるのです。
第四は、聖書の教えから、イエス・キリストを知らず、救いの知識がなくても救われる人があることも確かです。彼らは旧約聖書に出てくる聖人たちで、天国に入ると言われている人々です。そこにイスラエル人ではない人も含まれています。ノア、ヨブ、メルキゼデクなどです。彼らはイエス・キリストを知らず、キリストを通して神のもとに来たわけではありません。彼らが罪びとであったとしたら、なぜ天国に行けたのでしょう。これについては、私はこう信じています。
イエス・キリストの十字架による贖いの原理は、それをはっきりと知って受け入れる人だけではなく、神のご計画の原理を信仰によって受け入れていた旧約聖書時代の人々にも及ぶものです。もし、イエス・キリストが流された血による贖いの効力が旧約時代のユダヤ人や異邦人にも及ぶとしたら、様々な理由で、キリストを受け入れることができない環境の中にいる人々にも及ぶものと考えられます。さらに、救いの道をはっきりと理解できない幼子や知的障害者にも適用されるはずです。例えば、まだはっきりとした意識の育っていない幼子が死んだ場合や、重い精神的な障害のために、理性的な自覚を持てない人々や、自分の力ではどうすることも出来ない環境の中におかれていて、イエス・キリストを知る機会も、環境もない人々にも適用されるはずです。神は真理の光に照らして、心をご覧になる方です。神学の理屈や、律法に制約されずに正義と公平を行なわれます。偶然に地獄に落ちる人など決してありません。
最後に、はっきりと言えることは、福音を聞いた人は、自分の決心でイエス・キリストを信じて天国に行けるようになることです。逆に、福音を聞いていない人々の運命は救いの保証がなく、滅びに定められる危険が極めて大きいことには変わりありません。だからこそ、私たちは努めて全ての国の人々に福音を伝えなければならないのです。
では、クリスチャンでない人は全て地獄に行くのでしょうか。答えは、「神は正義をなさる方ですから、決して不当な裁きを行なわれることはない」と信じるしかありません。ですから、必要以上に恐れる必要はありませんが、神は人類を救うためにイエス・キリストをこの世に遣わし、彼を信じなければならないと警告して、救いの道をはっきり示されました。自分の永遠に係ることですから、不確かな理屈で、救いのチャンスを永遠に逃すことのないようにしてください。
心からの愛をこめて、
グレッグより