祈りの家族への手紙:2015-11


 親愛なる祈りの家族の皆様。

 人は困難に直面したとき、それがいつまで続くものかを考えます。一日も早くその困難から抜け出したいからです。この困難にはどんな意味があり、何を教えてくれるものかを考える余裕がありません。けれども、困難の向こうにはすばらしいことが待っている、という希望があればたいていの困難には耐えられるものです。その希望が大きければ大きいほど希望に向かって生きようとして湧いてくる力も大きくなります。必ず乗り越えることが出来ることが分かっていればなおさらです。

 痛みや困難は歓迎したくありません。けれども、痛みが私たちの体に危険を知らせて大きな被害から守ってくれるように、困難も私たちのためになる大きな役割と目的をもっているのです。しかも、それらはいつまでも続くものではありません。危険が去って痛みがその役目を終わると、脳は少しずつ痛みを感じなくしてくれます。神がその愛と知恵によって私たちをそのように創造してくださったからです。一方、困難もその役目が終わる時、私たちに大きな収穫を残して去っていきます。愛の神は私たちを無意味な困難に合わせるようなことはなさらないからです。

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)

 ですから、どんな困難の中におかれていても希望を持つべきです。私たちがどっこまでなら、耐えられるかを神は知っておられるからです。

 神はあなたが耐えられないような困難は決してお与えにはなりません。ですから、困難に直面した時、その先にどんな素晴らしいことが待っているのかと期待してください。

 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネの福音書16章33節)

 あなたは今どのような困難に直面しておられますか。主にあっては、希望が失望に終わることはありません。ですから、困難がなくなることだけでなく、もっと大きなことを期待できるのです。

 神に近づき、神との親しい交わりを持つことはどんな祈りの答えよりも大切です。それ抜きで、商売繫盛、家内安全、請願成就を求めるだけでは、「自分の願いさえ叶えてくれればどんな神だってかまわない」と思っている偶像礼拝者と同じです。本当の神は偶像礼拝を最も嫌う方です。そのような自分勝手な願い方は本人にとって何の益にもならないからです。神はあなたの祈りに答えてくださいます。けれども、願い事よりもあなた自身のことをもっと心にとめておられるのです。

 社会がますます多様化して、高度な文明の仕組みについていけなかったり、目まぐるしく変化する社会情勢の中ではみ出てしまったり、だまされたり、大きな被害を受けたりする人が多くなっています。あるいは、文明社会の仕組みそのものに反抗して、自暴自棄になり悲惨な事件を起こす人が多くなっています。また、破壊行為やテロを計画して実行したりする集団が勢力を広げています。何百万もの人々が国を負われて、住むところもなく、難民となって命からがら逃げ回っています。誰もが、これから世界はどうなっていくのだろうかと不安を感じていることでしょう。それでも、イエスは「恐れてはいけません。」「安心していなさい。」と言われるのです。

 全てをその御手の内に収めておられる神は、あなたの上に起きていることを何もかも知っておられます。けれども、この先どうなるのか分からない私たちは不安になり、恐れるのです。

 ずいぶん前のことですが、私がアメリカに留学していた時です。日本で牧師をしていた私には何の貯えもありませんでした。やっとのことで、飛行機代と半年分の学費をつくり、一人でアメリカに渡りました。アメリカでの慣れない生活や、言葉の問題と闘いながら、学びと学内でのアルバイトに励み、妻と二人の幼い子どもたちを招こうと頑張りました。日本にいた時に紹介されていた教会に毎週行くことだけが大きな安らぎでした。けれども、学内でのアルバイトで家族を養えるはずはありません。弱虫だった私はひとりでの外国生活に限界を感じ、どうしても家族と一緒でなければこれ以上続けられないと思い、大学の学生部に相談しました。ところが、学内にはあなたが働ける仕事は無いので、もう一年頑張って、大学外で働くことのできるビザが取れるようになるまで待ちなさい、と言うのです。私にできることはもう何もありませんでした。そこで、毎週行っていた教会の牧師に相談してみることにしました。毎週礼拝に出ていただけの私は教会でどんなことが話し合われていたかは全く知りませんでした。教会では私がどこまで頑張れるか、いつ相談に来るか、見ていたというのです。「私たちはいつあなたが相談に来るか待っていましたよ。」と言われた時、私は自分が何も分かっていなかったことを知りました。私は気が付かなかったのですが、私の授業料は教会が支払ってくれていました。それだけでなく、大学の書店には教科書代として、必要な金額が預けられていました。教会に私のための仕事が用意され、大学からの派遣としてビザなしで働けるようになっていました。何も知らなかった私は、ただ一人で悩んでいたのでした。

 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネの福音書15章7節)

 私たちの人生には分らないことばかりです。ですから悩みや心配が尽きません。困難がやってきてどうにもならないことがしばしばあります。不安や心配でいっぱいになります。実際に今、困難の中で悩んでおられる方もいらっしゃることでしょう。それは、神があなたのために計画しておられることを知らず、どんな素晴らしいことがそれに続くかが分からないからです。ですから、あまり心配しないで、神の愛の中にとどまってください。私たちに分からないこと、出来ないことは、全て神におまかせしましょう。本当にまかせ切って安心できるために神との信頼関係を持っていてください。主イエス・キリストは命をかけて私たちを罪の束縛から救ってくださったのです。

 ですから、私たちはどんなんことでもイエスの名によってお願いしてもいいのです。しかし、その前にやることは、イエス・キリストにしっかりとどまり、聖書からイエスのことばを自分の中にたくさん蓄えるのです。そうすれば、どんなことでも安心して求めることができます。そういう祈りは必ず答えられます。あなたが神に近づき、神の愛とご計画に任せ切ることができれば、お願いするのは一番後でもいいのです。神は最善をおこなってくださるからです。

 あなたは愛されています。

レックス・ハンバード祈りの家族

桜井 剛