祝福のメッセージ:2015ー11

No.201511

 
クリスチャンになった息子と無神論者の父との
往復書簡

この世の中でクリスチャンとして生きることは不可能ではないか

 親愛なるグレッグへ、

 最近私はこれまでお前と文通をしてきたことを何回も思い起こすようになった。よくここまで真剣に宗教について考えて来たことかと自分でも不思議に思うくらいだ。お前の忍耐深さに感謝しなければならない。特に前回の地獄についてのお前の説明は私に全く新しい考え方を与えてくれた。

 だが、私にはまだたくさんの疑問が残っている。私は自分が聖人だとは思わないが、かなりまじめな人間だと思っている。けれども、聖書が教えているようなことはとても実行できない。そればかりか、本当にそんなことができる人間がいるとは思えない。

 聖書は私たちにはとても実行できないようなことをたくさん教えている。例えば、敵を愛せよ。と書いてあるが、そんなことをしたら、どの国も敵の侵略を防げず、滅びてしまうではないか。上着を盗もうとする者には、シャツも一緒にやりなさい。とか、右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。とあるが、フロリダ州ではそんなことができるクリスチャンなど一人も見たことがない。この汚れた世の中ではそんなきれいごとは通用しない。私はキリスト教は立派な宗教だから、信じるべきだと思うが、もう一方ではそんなことは不可能だから、かかわりにならない方がいいと思うのだ。できもしないことをやっているように見せる偽善者のクリスチャンになるよりは、むしろ威厳を持って生きる罪人でいたいと思う。だから、私は教会にも入る気がしなかった。たとえ、私がクリスチャンになったとしても、聖書が教えているようなことはとても実行できないからだ。お前はその現実にどう答えるのか聞かせてもらいたい。

 

 たくさんの愛と感謝をこめて、

父より

 

 この世の中でクリスチャンとして生きるのは不可能ではないか - に答えて

 

 愛するお父さん、

 私はお父さんがキリスト教についてこれほど関心を持ってくださっていたことにとても感激しています。けれども、どうかこのことを忘れないでください。大切なことは、どの宗教を信じるのかではなく、どなたを信じて、その方に信頼を寄せて生きるかと言うことです。

 お父さんと私は長い間、神に関する疑問を論じ合ってきましたが、神による救いは、疑問や質問に対して正しい答えを持つことによって得られるものではありません。むしろ、救い主を自分のものとして受け入れることによって得られるものです。救い主を自分のために来られた方として受けとめ、その方が自分には必要であることを告白し、自分のために犠牲を払ってくださったことを信じて受け入れ、自分の人生をその方に委ねて生きることです。

 お父さん、それが全てなのです。その他のことは、すべてその補足にすぎません。

 そこで、お父さんの質問ですが、全くお父さんのおっしゃる通りです。完全なクリスチャンとして人生を生きることの出来る人はいません。この世には、完全な人などひとりもいないのです。これからもいないでしょう。クリスチャンも完全な人間ではないのです。

 もし、「聖なる行ない」という条件があるとしても、それを完全に実践できないという点では、お父さんも私も全く同じです。お父さんもよくご存じのように、クリスチャンである私がクリスチャンでないお父さんよりも聖なる人間であると言える理由はどこにもありません。

 それが大切な点です。お父さん、この点にイエスが私たちに不可能と思われることを教えておられる理由があるのです。私たちは自分の力では神の求めておられる完全さや聖さには到達できないのです。だから、救い主が必要なのです。

 イエスの生涯の働きにおいてしばしば、「自分たちは聖い。神の前に正しい行いをしている。」と信じ主張している人々と対立しました。彼らは自分のためには救い主が必要だとは思わなかったからです。イエスはどのように彼らを助けようとされたのでしょう。彼らは自分たちが神の前に正しい人間であると思うなら、自分たちの力でそれを示さなければなりません。パリサイ人は自分たちが他の人々のように罪びとではないと主張していたからです。そこでイエスは、神が完全であられるように、完全でなければならないことをお示しになったのです。

 彼らは、「殺してはならない」と教えているモーセの十戒を守っていると主張するので、神が求める完全さを教えるために「兄弟を憎むものは殺人をしたのと同じである」と言われたのです。

 イエスは「これらの戒めを実行しなければならない」と言われるのではなく、神が求める完全さがどのようなものであるかをお示しになり、自分の力では実行できないことを自覚することを求めておられるのです。ある程度聖いとか、他の人と比べて聖いと言うことは完全な神の前には通用しないのです。罪に染まった、不完全な自分の力で神の求める完全さを示そうなどと思わないで、自分にはできないと認め、それを告白して、神が与えてくださる聖さを無償の賜物として受け取るのです。神は私たちに神の聖さを無償で与えたいと願っておられるのです。それは、私たちが創造されたときに持っていた神との親しい交わりを取り戻すためです。神との親しい交わりは、無条件の愛に根ざしたものです。罪によって神から遠く隔てられてしまった私たちにはそれを取り戻す力がありません。そこで、神はその聖さを無条件で私たちに与える道を開かれたのです。イエス・キリストが神から遠く離れてしまった私たちに代わって、全ての罪の報いを引き受け、神に近づく道を開いてくださったのです。私たちは神の願い通りにその賜物を受け取ればいいのです。私たちがそれを信じて受け取ることを神は願っておられます。私たちにはそれ以外には神との関係を取り戻す道がないからです。それはイエス・キリストの全ての行ないを自分のためとして受け取り、その聖さと完全さに頼ることです。自分の行ないによるのではありません。イエス・キリストは私たちの罪を贖うために十字架でいのちを投げ出してくださいました。それを自分のためにしてくださったこととして受け取った人は、神の前に罪のない者と認められるのです。お父さんもどうかそれを受け取ってください。

 最後に、お父さんが持っておられるもう一つの疑問点にお答えしたいと思います。

 恐らく、お父さんは、クリスチャンには聖書が教えているようなクリスチャン独特の生き方があって、それはこの世の中には通用しないものであることを心配しておられるのでしょう。クリスチャンになると自分のやりたいことができなくなり、自分のやりたくないことをやらなければならなくなると思っておられるのではないでしょうか。そうではありません。私たちにとって益となるのでやりたいと思うこと、害になるのでやりたくないと思うことが変わるのです。つまり、生き方の基準が変わるのです。クリスチャンになっても、その基準に従ってお父さんがやりたいと思うことをし、やりたくないことはやらなくてもいいのです。

 イエス・キリストは私たちが神の願っておられることを実行するまで、遠く離れて見ておられるのではなく、私たちのすぐ近くにいて、私たちを助けくださいます。私たちはイエス・キリストの力によって、良い行いが出来る人間へと内面的に成長して行くのです。

 心からの愛をこめて、

グレッグより