祝福のメッセージ:2015ー12

No.201512 

クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

他人が私の身代わりに死ぬことで、なぜ私の罪が赦されるのか

 親愛なるグレッグへ、

 返事が遅れて申し訳ないが、それは決して私がお前との文通がいやになったからではない。むしろ、今までのお前との議論をもう一度振り返って良く考えていたからだ。特にお前からの最後の手紙は大変考えさせられた。

 救いを受けるには何らかの条件があると思っていたのだが、それは無料のプレゼントだったとは驚いた。そんなことは聞いたこともない。あたかも無頼漢が突然聖人君子になるようなものだ。守れないような高い道徳基準をかかげておいて、「これは誰にも守れないということを示すためだ」と言っているように聞こえる。けれども、イエスの教えの真意についてのお前の解説はとても分かりやすい。今まで私が聞いたことが真実だったことを裏づけてくれた。確かに誰一人キリストの教えを完全に実行できる者はいない。できると言う人は恥知らずの偽善者か大噓つきだ。だから、お前が言う通りクリスチャンも含めて全ての人は地獄行きと言うことになる。

 そこで私にはもう一つの疑問が起こる。お前との文通を通して、いつもお前が言ったように、「イエスは私の罪のために死んだ」と言うのは、イエスは私が行なった悪事のために罰せられたと言うことか。そして、「彼を信じるなら、神の前に出ても罰せられない」と言うのか。私は前にもそれを聞いたことがあるが、全く意味が分からない。2000年も前の人間が死んだことで今の私の悪事が赦されるなどあり得ない。どうして、完全な正義を求める神が私の罪の代わりにイエスを罰して、罪だらけの私と知っていながら無罪にすることが出来るのか。しかも、なぜイエスがあんなにも多くの苦しみを通らなければならなかったのか。全能の神ならもっとほかに良い方法があったはずではないか。お前の分かりやすい説明を聞かせてくれ。

 いつものように愛をこめて、

父より

他人が私の身代わりに死ぬことで、なぜ私の罪が赦されるのか - に答えて

 愛するお父さん、

 お父さんが最近の私たちの文通をそんなに重んじてくださっていることに感謝します。どうかゆっくり時間をかけてください。お父さんもお母さんも元気でおられることに安心しています。

 最後の手紙で「イエスの教えの真意が分かりやすかった」と言ってくださって感謝します。

 もし、イエスの教えが、私たちを自分の力ではなく、神のあわれみに頼る方へと導いてくださるのでなければ誰ひとり耐えられません。ですから、当時の熱心な祭司や律法学者たちよりも、一般の人々の方がイエスの教えを受け入れやすかったに違いありません。なぜなら、律法学者たちは自分たちは誰よりも聖く、神に受け入れられていると思い込んでいたからです。ですから、イエスの教えは彼らへの挑戦と思えたことでしょう。だから、ますます彼らはイエスに対して心をかたくなにしたのです。「神が完全であるように、あなたがたも完全でなくてはならない」言われても、へりくだって、神の憐れみを乞う気になれなかったのです。彼らはイエスの導きとは逆の方向へ進んで行ったのです。

 もし、イエスが神であり、神の完全さを持った方だと分かれば、神の求める完全さを得るには、イエスに頼る以外には道がないことが分かるはずです。弱い自分の真実の姿を知りたいなら、ありのままの自分をさらけ出すしかないのです。イエスの教えは、律法学者たちのように自分の力と方法で神の前に罪を隠して義をつくろうこととは違います。自分をさらけ出して、神の憐れみを乞うことです。ですから、人がどれほどの善人か、どれほどの悪人かは神の恵みの前には全く意味のないことです。 

 それではお父さんの質問ですが、実は、正直に言って私にも分かりません。これは「キリストによる贖い」と呼ばれていて、キリスト教会に課せられた永遠の神学的な課題です。けれども、定義できない課題だからと言って驚くことはありません。科学の探求にしても同じことが起きています。誰かが解き明かした定説を説明されても一般の人はほとんど理解できません。しかも、その定説はしばしば覆されますが、それも、一般の人には大きな問題とはなりません。

 神が十字架による贖いによって私たちを義としてくださったという聖書の教えがなぜ可能なのかを解き明かすことが永遠の神学的な課題であっても、その事実は何も変わらないからです。それを神学的に説明しても、科学的に解説しても、一般の人にはほとんど理解できないことでしょう。それでも、神がイエス・キリストの十字架による贖いによって私たちを罪から解放してくださることで人生が変わるのは現実に起こっていることです。

 そこで、おとうさんの理解のお助けとなるよう、二つのことをはっきりとさせておきます。

 第一の点は、イエスは2000年前に死んだ罪のない一人の人間だっただけではありません。イエスは神です。私たちが罪を犯して傷つけて来た神ご自身なのです。私たちはイエスに対して罪を犯したのです。そのイエスが私たちの罪を引き受けて裁きを受けてくださるのです。罪を裁く方と罪を裁かれる方とが同じで、裁かれる罪が私たちの罪なのです。イエスはその罪への判決を受けて死なれたのです。それが、私たちへの神の愛のご計画です。

 第二に、完全な聖さだけが神の性質ではありません。神は完全な聖さと同時に完全な愛を持つ方です。神は限りない愛によって全てを創造なさいました。特に人を特別に愛されました。ですから、人が罪を犯してもその愛は少しも変わらず、永遠にご自分と住まわせたいという願いは変りませんでした。そこに、大きな問題が出来てしまったのです。神の前にはどんな罪も受け入れられません。しかし、愛の神は人をこの宇宙から消し去ることをなさいません。そこで、私たちの罪を償う必要が起こりました。神にとって、罪を見逃すことは不可能だからです。

 けれども罪の中にいる人間には罪を償うことはできません。罪を償うためには永遠に死ぬしかないからです。ですから、神の愛と神の正義の両方を満たすためには、神の側でそれを行なうしかないのです。それが、聖書の教えている、「人となってこの世に生まれたイエス・キリストが人の罪を負って死なれた贖いの業」です。神であるイエスが人の罪をご自分の身に負って死の罰を引き受けてくださったのです。このようにして、人類の罪を神が背負い、神がその罰を引き受けてくださることによって、神の愛と正義とが両立したのです。人は本来与えられていた神と等しい性質を回復して、神と共に永遠に住むことができるようになったのです。

 神の義が与えられて、神と共に永遠に生きることができるものとされている私たちですが、地上に生きる間は古い体と性質を持って生きています。内側ではすでに永遠に神とともに生きることが可能になっているのですが、全ての人がそのことに気が付いていないのです。その事実を知ってそれを受け入れない限り、その効力は発揮されません。そこに、福音の良い知らせとそれを受け取る信仰とが必要になるのです。

 私たちは、罪を赦されるために何もする必要はありませんが、神が行なってくださった贖いを信仰によって受け取る必要があります。そうしないと自分のものとして効力を発揮しません。

 お父さんがイエス・キリストを信じて、罪の贖いと永遠のいのちを自分のものにしてくださるよう心から願っています。

 愛をこめて、

グレッグより