No.201601
クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡
罪人でありながら、聖くされているとはどういうことか
親愛なるグレッグへ、
なぜイエスが死ななければならなかったかについてのお前の説明は大変よく分かった。私が長年いだいていた疑問に少し光をさしてくれた気がする。罪を犯した者が、罰を受けるのが当然なのに、罰する側の神がその罰を引き受けてくれたとは、特別な啓示を受けた考え方としか思えない。誰だって常識はずれの考え方だと思うだろう。普通は「良いことをすれば天国に行けるが、悪いことをすれば地獄に行く」と考えるものだ。それが普通のクリスチャンの考え方だと思っていた。ところがお前は全く違う考え方をしている。私の読み違いではないかとさえ思った。お前がそういう考えでキリストを信じていたとは本当に驚いた。革命的だ。
しかし、私はまだお前が言っているような信仰の決心をしたわけではない。まだまだ時間が必要だ。私が決心をするのは何もかもはっきりと分かった時だ。今はまだその時ではない。
それまでに、まだ救いについての疑問が残っている。私が神の前に聖い者とされているとはどういうことなのか分からない。誰だって私を知っている者は私が聖い人間だとは思っていない。そんな人がいたとしたら、その人はきっと目が見えない人だ。それとも、私はお前が書いていたことを誤解したのだろうか。お前は、「もし、我々が神を受け入れるなら全ての罪は赦されて聖い人に変えられる」と言った。イエスによって我々の過去の罪が赦されたことは分かっても、クリスチャンが現在すでに変えられているということが分からない。なぜ、キリストを信じる者は今すでに神と等しい聖さを与えられていると言えるのか。どう見ても聖くなっているとは思えない。もし、一つの小さな罪でも、神と私を引き離してしまうとしたら、たとえ私の過去の罪が全部赦されたとしても、何の助けにもならない。私は自分が毎日、何らかの罪を犯してしまうことを知っているのだ。こんな罪人でありながら、どうして、私たちは聖くされていると言えるのか教えてほしい。
愛をこめて、
父より
罪人でありながら、聖くされているとはどういうことか ― に答えて
愛するお父さん、
お父さんの今度の質問はとてもいい質問です。お父さんは気が付いておられないかも知れませんが、お父さんの手紙は以前とは全く違ってきました。お父さんはもうキリスト教が真実かどうかという質問はしなくなりました。むしろ、キリスト教はどのような点で真実と言えるのかと言う質問に変わって来ました。今のお父さんはキリスト信仰の内側で疑問を投げかけているのです。私にとってそれは大きな感激です。お父さんはまだ時間が必要だとおっしゃいましたが、私もそう思います。あとは時間の問題です。どうか存分に時間をかけてください。
さて、どうして私たちが罪人であると同時に聖いと言えるのかについてですね。
神が初めに世界を創造なさったとき、「光あれ。」と言われました。すると光ができました。「乾いた陸地が現われよ。」と言われると、乾いた陸地ができました。そのように、神のことばによって全ての物が存在し始めたのです。哲学的には、存在論と言い、神のことばが全てのものの存在を生み出したのです。私たちの救いも、万物の創造と同じように、神のことばによって創造されたものです。「エド・ボイド(お父さん)の罪は赦された。」と神が言われたので、神の前には罪は全て赦されたのです。神が「あなたは聖い者とされた。」と言われたので、神の前には完全に聖いのです。
けれども、神のことばによる天地創造の時と、神のことばによって罪が赦されて、聖くされることとの間には大きな違いがあります。天地創造は何もないところからの創造でした。ですから創造されたものは何の問題もなく、その通りに存在し始めました。
けれども、罪が赦される場合は状況が違います。なぜなら、お父さんはそこに存在し続けているからです。過去の生活も記憶も全て持って存在しているのが今のお父さんです。もし、全く聖くするために過去の全てを消し去るとしたら、お父さんはいなくなり、全く違った人物が存在し始めることになります。それではお父さんを罪の中から救ったことにはなりません。単に、全く違う新しいものが創造されたにすぎません。神はそれを願ってはおられませんし、私たちもそれを願ってはいません。
ですから、罪が赦されて新しい命が与えられた私たちは、同時に古い罪深い自己を持っているのです。けれども、イエス・キリストを信じた時から新しい自分が始まっています。
そういうわけで、私たちは完全に聖くされましたが罪深い古い自分を持っているのです。神はイエス・キリストのゆえに私たちを聖い者と見てくださっていますが、古い罪深い自己を持った自分もそこにいるのです。
けれども、私たちはいつまでもその両方の性格の間で苦闘しているわけではありません。私たちは罪のない、神のご性質に等しい新しい人を内側に持っているので、やがてその聖さ完全さが、私たちの全てとなるのです。
蝶のさなぎを考えてみてください。始めから持っていた古い性質は蝶とは全く違い美しくもなく飛ぶこともできません。まだ蝶にはなっていませんが、その中には、すでに蝶となる性質を完全に持っているのです。
クリスチャンである私たちは、今は古い罪の性質も持っていますが、神が与えてくださった新しい性質を大切にして、完全にされて永遠に住むにふさわしい新しい自分が自分の全てとなるよう、古い自分を少しずつ脱ぎ捨てて、新しい聖い性質を育てているのです。
ですからお父さんもイエス・キリストを罪からの救い主として受け入れて、神が聖いと見てくださる新しい聖い性質を持とうではありませんか。そうすれば、神はその時からお父さんを罪のない聖い者と見てくださり、それに向かって成長する力を与えてくださいます。今は古い罪の性質も持っていても、やがて完全に神が聖いと見てくださいっている新し性質がお父さんの全てとなる時が来ます。その時を待ち望みつつ、
愛をこめて、
グレッグより