祝福のメッセージ:2016ー02

No.201602 

クリスチャンになった息子と無神論者の父との往復書簡

キリスト教に関する全ての教えが真実であると言いきれるのか

 親愛なるグレッグへ、

 子どもたちは皆元気かい。お前たちの住むアイオワはひどい寒波に見舞われたようでさぞ大変だったろう。通りに出るまでの雪かきをするだけでもさぞ骨が折れたことだろう。その上、子どもたちが外で遊べないのではきっと不自由しただろう。去年の夏のフロリダはひどく暑い日が続いたが、大雪のアイオワのことを思えばそう大したことではなかったという気がする。子どもたちを連れてディズニー・ワールドに来るそうだが、会えるのを楽しみにしている。

 さて、本題の神学論争とやらに入ろうか。とは言っても、正直言って私の疑問はみな出し尽くして、お前は丁寧にそれに答えてくれたので、一応納得できた。お前の固い信仰がいい加減なものではなく、しっかりとした知識と理性に根ざしていることも分かった。それなのに、まだはっきりと信仰を受け入れる決心がつかないのだ。どこかで間違ってはいなかったか。大変理知的で分かりやすく説明してくれたので、わが子ながら感心したのだが、もしかしてまだ、お前が知らなかったことがあったのではないか。どこかにもっと賢い学者がいて、違うことを教えているかも知れない。本当にキリスト教が真実だと言いきれるのか。そこに自分の人生をかけてもいいのだろうか。という疑問が残るのだ。これは、お前には不条理な疑問のように思えるかもしれないが、今の私の正直な気持ちだ。お前はどう答えてくれるのだ。

愛をこめて、父より。

 

キリスト教に関する全ての教えが真実であると言いきれるのか ― に答えて

 愛するお父さん、

 私も、正直に言って、それに対する答えはありません。私の専門である「キリスト教弁証学」によってはそのような疑問には答えられないのです。息子の立場から言うのは申し訳ないのですが、牧師の言葉としていくつかのアドバイスを申し上げたいと思います。

 もし、理性的な観点から疑問が残っていたら、今までの文通を読み返して分かっていただけると思います。人はしばしば、かつては理解していたことでも、再び疑問を感じることもあるのです。もう一度その疑問とその答えに帰ると納得できることが多いのです。私にもそういう経験があります。あまり深く考えなかったことがそれによってはっきりとしたり、より強く納得できたりします。それでも納得できない時には遠慮なく、また疑問をなげかけてください。

 もしかしたら、お父さんは信仰というものを考え違いしておられるのかもしれません。信じることはどんな場合であっても、証拠や理性を越えたものです。だから「信仰」と言えるのです。証拠を検証することとは違います。キリスト教が真実であることを信じることも、その逆を信じることも、ある程度の危険を犯すことです。その選び方で危険度に大きな差が生じます。

 キリスト教の教えが真実であることは何の疑いもありませんが。信仰は理性に頼るだけのものではありません。万が一確かでなかったとしても、信じることによる損害は何もありません。それどころか、信じなかった時の損失は重大で永遠的なものです。

 信じることにはどこかの時点で決断と跳躍が伴うのです。理性だけでは到達できないものだからです。けれども、お父さんはすでにその跳躍を始めておられるのです。決断をしなかったり引き延ばしたりすることには大きな危険がともなうからです。

 例えば、誰かが「火事だ」と言ったとします。確かに煙のようなにおいもするし、外が騒がしい。ぱちぱちという音もする。けれども、はっきりと火事だとは言いきれない。建物の中に残っている人だっている。外へ避難しようか、このまま中にいようか決断しなければなりません。

 外に出てみたら、焚火だったり、 子どもたちの遊びだったり、悪い冗談だったりするかもしれません。それでも、本当に火事だったのに、外に出なかったときの損害と危険に比べてみてください。つまり、どちらもある程度のリスクはあるのですが、損害の大きさは比べ物になりません。決断をためらっている場合も、火事を信じない決断と同じ結果になります。

 他の例えをあげてみます。私たちはブレーキが故障した列車に乗って断崖絶壁に向かって猛スピードで走っているとしましょう。沿線の人々が既に、クッションを敷き詰めて飛び降りても安全なように用意をしていると誰かが言ったとします。その人を信じますか。信じて飛び降りれば多少危険はともないますが、信じない時と決断をしない時は確実に絶壁に墜落です。

 パスカルはこう言いました。「キリスト教が間違いだとしても何ひとつ失うものはないが、真実であるのに信じなかったり、信じることをためらったなら、永遠を失うことになる。」 もし、人生をかけるのなら、キリストを信じることが一番よい選択です。

 最後にもう一つ申し上げます。不確かなことを信仰によって乗り越えることの難しさは、お父さんの立場と私の立場では大きな違いが有ります。すでにイエス・キリストを救い主と信じた私はイエスとの関係を深めることができます。すると、頭で理解することよりも、経験から分かることの方が格段に大きくなります。理屈では分からなかったことが理解出来るようになるからです。今、お父さんが決断をためらっておられるのは、キリスト教が真理かどうかではなく、ご自分が経験したことのない領域に進もうとしているからです。不確かだと感じるのは今まで考えたことのない、新しい世界に足を踏み入れようとしているからです。ためらいを感じるのは当然です。信仰は確かに新しい人生の歩みです。ですから、決して急がなくてもいいのです。少しずつ注意深くクリスチャンの歩みを始めてください。

 お父さんはほとんどの質問カードを出し尽くしました。今はその結果を見る時です。お父さんが好きそうなクリスチャンの音楽テープをお送りします。時間がある時それをお聞きください。ただ聞いているだけでいいのです。きっとそこから伝わって来るクリスチャンの歩みに親しみを覚えるようになることでしょう。そして、キリストをより身近に感じるようになります。聖書もお送りします。少しずつお読みください。分からないことがあっても心配ありません。

 最後に、大切なことですが、お祈りしてください。堅苦しく考えなくてよいのです。テープを聞きながら、私と話す時のように、神に話しかけるのです。それも、だんだんと分かってきます。

 最初はこのように祈ってください。

 「主よ、私は罪人であることを自覚しています。すまないと思っています。あなたは私の罪のために死んでくださいました。それで私はあなたとともに永遠を生きることができるようになりました。ですから、あなたを救い主として信じます。どうか私の心に入り、あなたの願われるような私にしてください。」

 この祈りによって、お父さんは神の前には全く罪の無い者と見ていただけるようになります。

 もう、期待しつつとは言いません。喜びつつ、愛をこめて。

グレッグより