親愛なる祈りの家族の皆様。
春の訪れとともにイエス・キリストの復活を祝うイースターがやって来ます。今年のイースターは3月27日です。あなたは復活を信じておられますか。私は信じています。
イエス・キリストを信じる者にとって死は終わりではなく、復活と永遠のいのちの始まりです。イエスは言われました。
「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(ヨハネ6章39節)
イエスは十字架の死から3日目に復活して、私たちの復活の保証となられました。ですから、復活への期待を込めて世界中でイースターが記念されているのです。
復活は死と密接な関係があります。復活があるので死があってもよいのです。死がなければ復活もありません。私たちは不完全で弱く、死ぬべき定めを負った体で今日を生きています。そんな私たちが復活の栄光を手に入れることができるのです。
今は高齢化社会と言われ健康な老人たちの数が多くなっていますが、どんなに長く生きるようになったとしても死は誰にも必ずやってきます。けれども、死が全ての人の終わりではありません。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。(イザヤ40章30,31節)
年を重ねるごとに肉体的な弱さを実感し、あらゆるところに不都合が表われるようになり、しばしば病に悩まされる人も多くなります。それはとても辛いことです。主が日々支えて、慰めと力を与えてくださるよう祈ります。今は比較的元気な私も、やがてはそのような日が来るのを覚悟しなければなりません。
人の弱さは肉体だけではありません。精神的にも性格的にも様々な点で不完全さや欠点を思い知らされ、自分の悩みや問題だけではなく身近にいる多くの悩みをも抱えて一緒に心配するようになります。それゆえ祈りが大切であり、祈ってもらう必要があるのです。謙虚になって自分の弱さを告白し、自分でも祈り、人にも祈ってもらうのは良いことです。「自分は不完全で、弱い者である」ということを自覚し、告白することだからです。このようにして、弱さや不完全さを持ったままでは永遠には生きられないことを納得して受け入れることができるようになるのです。
愛の神は罪の性質を持った人間が不完全な痛みを持ったまま永遠に生きることは望んでおられません。それは地獄の苦しみに匹敵するほどで、あまりにも残酷すぎるからです。
本来、人間は神に似た者として創造され、神のいのちの息を吹き込まれたので、完璧で永遠に生きるはずでした。けれども、罪を犯して神に背く性質を持ってしまったために、神が願われた本来の姿とはほど遠い者となって、苦しみと痛みを背負うようになってしまったのです。それゆえ、人は死ぬことが定められたのです。けれども、死は本当の終わりではありません。むしろそれで良いのです。死の後に来る復活の体は今の姿とは違ったもっと良いものだからです。この世におけるしばしの悩みや苦しみは、やがて来る栄光には比べものになりません。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8章18節)
ですから、与えられた人生を最後まで信仰と希望を持ってイエス・キリストを見上げつつ生きぬこうではありませんか。辛いこと、悲しいこと、経済的な問題や病気の心配、家族の問題などたくさんあることでしょう。私も弱さを持った罪びとの一人として、あなたの祈りのリクエストのためにお祈りします。あなたも私も共に神が約束してくださった復活と永遠のいのちの栄光を受けるためです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6章23節)
死は全ての人に定められていますが、全ての人が復活と永遠の命に入るわけではありません。
復活のいのちは今の命とは全く違う新しいいのちです。罪が支配することによる弱さや苦しみはもうありません。ですから、病気で衰えることもありません。悲しみも涙も必要がなくなります。もちろん死もありません。永遠に生きることのできる命だからです。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3,4節)
復活の後は永遠に神と共に生きることになります。ですから、神と共に安心して生きられるようになっていなければなりません。神と共に永遠に生きることがどんなに素晴らしいことかを想像することができますか。
今の時代、多くの結婚が失敗に終わっています。それには様々な事情があることでしょうが、性質の違う他人と一緒に生活をする心備えが足りないことが大きな原因でしょう。今まで他人だった人と毎日を過ごすのですから、よほどしっかりとした備えをしていなければ良い関係が長続きはしません。「性格の不一致」とよく言いますが、二人の性格が完全には一致しないのは当たり前です。それを承知の上で理解し合い、譲り合い、補い合って新しい良いものを一緒に築いていくのです。
神と共に永遠に生きる場合はもっと大きな性格の違いがあります。不完全な罪人である私たちがどれほど神のご性質に合わせられるというのでしょう。そんなことは不可能にさえ思われます。
ところが、神はそれを可能にしてくださいました。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださいました。更に、死を打ち破って復活し、私たちに永遠の命を約束してくださいました。
ですから、私たち一人ひとりが自分の罪を告白してイエス・キリストを救い主として信じて心に受け入れ、キリストの完全さを自分のものとしていただかなければなりません。イエス・キリストの聖さを自分の身にまとうのです。
古い自分を脱ぎ捨てて、キリストの聖さと正しさを新しい自分の義の衣として着るのです。
それだけで終わりではありません。神と共に永遠に生きるためには、病むことも老いることも弱さもない復活の体でなければなりません。イエス・キリストの十字架の死がなければ復活もありません。イエス・キリストは十字架の後、三日目に死を打ち破って復活してくださいました。それは私たちに永遠の命にふさわしい体を与えるためです。キリストとともに罪に死ぬことを経験した者はキリストと同じ復活の体を与えられて、神と共に永遠を生きることができるようになるのです。
あなたにとって、今年のイースターが特別の日となりますようお祈りしています。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井剛