親愛なる祈りの家族の皆様。
若葉が陽の光に映え、益々命の躍動を感じる季節となりました。命があるということは本当に素晴らしいことです。私たちはその命をどれほど大切に扱っているでしょうか。今月は、私たちに与えられている命についてご一緒に考えたいと思います。
私たちは毎日と言っていいほど大切な命が失われていくのを見聞きしています。幼児虐待、無差別殺人、テロ、事故、自殺などによって、まだ失われなくてもよい尊い命が失われているのです。
命は何よりも大切です。どんなことがあろうとも、与えられた命を許される限り十分に生き抜くべきです。それが命をお与えになった神に対して、私たち人間が果たすべき最も基本的なつとめです。命は神が創造なさったものの中でも最も大切で特別なものだからです。
けれども、ただ長生きをすればよいというものではありません。長寿国となった日本ですが、介護の質が大きな問題となっています。老人が老人の介護に疲れ果てて心中に追い込まれるという痛ましい事件さえもしばしば耳にします。
神は人を神に似たものとして創造なさいました。神に似たものとして創造された人は神との親しい交わりを持つことができるものでした。神と親しい交わりを持つことこそ本来の命の本質です。ですから、神以外の何者も人格を持った命を創造することはできません。それ以上に高い質の命が他にあるでしょか。
ところが、罪によって神から離れてしまった人類は、命の本来の役割を失ってしまいました。神から離れた命は本来の命ではありません。もとのように神との親しい交わりを持てる命を取り戻すために、イエス・キリストは神によって創造された人間と同じ姿となってこの世に来られました。
神に対して罪を犯している私たちを救うことができるのは神だけです。ですから、イエス・キリストは偉大な教師であるというだけでは、私たちの命を救うことはできません。100%神でなければなりません。また、100%人でなければ、人に代わって人の罪を償うことはできません。イエス・キリストは完全に神であると同時に、完全な人として世に来られたのです。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1章3節)
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。(ヨハネ1章3節)
イエス・キリストは神が人に語りかけておられる「ことば」であると同時に、私たちが神と語り合い交わりを持つための「ことば」ともなってくださいました。イエスの名によって祈り、イエス・キリストによって神との交わりを持つことができるからです。神との交わりを持って生きることこそ本来の命そのものです。イエス・キリストはその命を取り戻してくださったのです。
あなたも、私も、誰一人、今の命が終わることによって神との交わりから永遠に引き離されてしまうことを願ってはいません。私たちは長い人生の中でしばしば、神のない人生の空しさや、神の憐れみが自分には届かないかのように感じて苦しんだりしてきました。もし、神から離された命が永遠に続くとしたらどんなに恐ろしいことでしょう。私たちがそうなることを神も願ってはおられません。ですから、私たちが神の憐れみにすがり救いを求めるなら、神はその願いを必ず聞いてくださいます。そこに私たちの望みがあるのです。けれども、そのためには神との交わりを持つことのできる本来の命であり「ことば」であるイエス・キリストを心に持たなければなりません。イエス・キリストこそ「ことば」であり「命」だからです。
祈りは神との交わりの大切な要素です。祈りのリクエストは私たちが神との交わりを実践することです。ですから、当面の願いがかなえられるだけで終わってはなりません。私たちの祈りが答えられるのは、神が祈りを聞いてくださることを実感するためです。私たちには日頃の願いがきかれることよりももっと重大で切実な問題に直面する時がやって来ます。私たちの地上の命は必ず終わるからです。あなたはその準備をもう始めていますか。私たちが永遠のいのちにかかわる切実な祈りをするときにも、神がその祈りを聞いてくださるという確信を持って祈ることができなければなりません。
皆さんは祈りのリクエストを書くことによって、日々それを学んで確認しておられるのです。祈りのリクエストは神との交わりを持つ命の絆です。神との関係がいつも身近にある人生には何があっても恐れはありません。永遠のいのちの与え主である神があなたとともにおられるからです。
そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」(へブル書13章6節)
イエス・キリストによって神との交わりを回復し新しい命を約束されている私たちは、二つの命を同時に生きていることになります。一つはイエス・キリストの死と復活によって神との交わりを回復した永遠のいのちです。もう一つはそのいのちを受け継ぐまでの生まれながらの古い命です。
古い命だからと言って軽んじてはなりません。この命が新しいいのちを受け継ぐからです。新しいいのちを受け継ぐにふさわしい命として生きるよう、今から、神との交わりを大切にして、イエス・キリストを心の内に持って生きるべきです。
私たちは全知全能の神の前で恐れつつ緊張して永遠に生き続けるわけではありません。私たちの罪は全てとり除かれ、神の前に何の罪もないものとして出られるのです。神が初めに願っておられた、神に似た者として造られた姿の私たちが、神の愛の中で感謝と喜びに満たされて永遠に生きるのですから、恐れることはありません。パウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ人への手紙1章21節)
パウロは、「福音のために生き続けることを選びました。」(24節)と結んでいます。私たちにも神の願われた通りの本来の命が待っているのですから、古い命の尽きることを恐れる必要はありません。ですから、この世の命を神と人々に仕える、平安に満ちた、質の高い命として活用しようではありませんか。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
日本主事 桜井 剛
追伸: 今月の祝福のメッセージはお休みにします。