親愛なる祈りの家族の皆様。
今は日本中がオリンピックの話題で湧いています。始まる前は開催さえ危ぶまれていましたが、始まってみると熱のこもった競技が次々と展開して、平和なメダル争いが熱気を帯びてきました。メダルを得るために、メダルを本国に持ち帰るために、アスリート(選手)たちは必至の戦いを繰り広げています。参加することに意義があるとは言っても、メダルを取れるか取れないかは、彼らには大きな違いです。国を代表して表彰台でメダルを受けることはどんなに誇らしいことでしょう。
古代ギリシャで始まったオリンピックでは、優勝者に与えられたのは高価な金メダルではありませんでした。オリーブの枝で編んだ冠で、そのものには価値はほとんどありません。優勝の記念としてとって置きたくても、すぐに枯れてしまいます。アスリートたちは物や形では表わせない栄誉のために命がけで戦ったのです。
今も昔もアスリートたちは苦しい訓練を重ねています。私たちはその苦労を知る機会があまりありませんが、オリンピックになるとメダルを得た優勝者たちの厳しい、苦しい訓練の日々が紹介されることがあって、あまり知られていない様々な苦しい訓練があることが分かります。彼らの勝利の力は決して一夜にして出来たものではありません。
極限まで体に負担をかけて筋肉を鍛え、厳しい食事制限もします。毎日の厳しい訓練は身体だけではなく精神的にも大きな重圧で、普通の人は到底やる気のしないことばかりです。アスリートたちはそれをやり遂げて勝利を得るのです。やり遂げても勝利が得られないことも承知しています。
私たちの信仰の戦いの場合はどうでしょう。大きな違いは誰もが勝利者になれるという点です。私たちの信仰の闘いは他の人と競うのではありません。誰もが勝利者となる永遠に至る栄誉を目指す闘いだからです。
クリスチャンになったからといっても、アスリートたちのように有名になったり、メダルや報奨金を得たりするわけではありません。しかし、目に見えない大きな価値のあるものを獲得します。公平な審判者である神が私たちの訓練の指導者となり、チームの味方になってくださるからです。
パウロは若い伝道者であったテモテに書き送った手紙の中でこう言っています。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。(テモテ第一6章12節)
また、もう一通の手紙ではパウロは自分の信仰の歩みを証して、こう書き送りました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテ第二4章7、8節)
私たちの信仰の戦いとはどのような闘いでしょうか。
パウロにとって信仰の戦いは、あらゆる種類の迫害や危険でした。けれども不思議にその都度奇跡的に助けられ、証のチャンスに変わりました。使徒の働きを読むとその事実がよく分かります。
ユダヤ人の暴徒たちに殺されそうになった時、ローマ兵に助けられて会堂に連れられて行き、そこで多くの人々にイエス・キリストを証しする機会を得ました。
囚人としてローマへ護送されていた途中、難破して船もろとも海に沈みかけた時も、奇跡的に島に打ち上げられて、船に乗っていた人たちだけでなく、島の人々全体にも主の力を証する機会を得ました。数え上げたらきりがありませんが、何と多くの奇跡的な出来事を通してパウロの伝道が進められたことでしょう。何度も危険な目に遭いその都度命拾いをしましたが、全世界に福音が伝えられるために、歴史上どうしても起こらなくてはならないこととして、神がともにおられたからに違いありません。それが、彼の信仰の戦いとして表わされているのです。それらは決してパウロの個人的な苦難だけでは終わらなかったのです。
パウロのように名前は知られていませんが、歴史上には数えきれないほど多くの人々が命がけで信仰を守り通し、ある人々は投獄され、ある人々は不当な苦しみを負わされ、殉教の死を遂げた人々も少なくありません。どんなに苦しかったことでしょう。どんなに恐ろしかったことでしょう。けれども、彼らは勝利を得るための信仰の訓練として喜んで受け止めていたのです。
私たちが実際に大きな困難や命を脅かされるほどの危険に直面することもあるかもしれません。それを主の栄光を表す機会として用いることができます。私たちはどのような困難の時にも信仰を働かせて私たち自身を用いていただくのです。その労苦は決して無駄になることはありません。
イエスの教えを信じて従っていた人々はしばしばユダヤ教の指導者たちから、「律法の教えからそれて邪悪な教えに染まった」という理由で、懲らしめのためにむち打ちの罰を受けました。彼らは痛い鞭で何度も打ちたたかれ、泣き泣き帰って来たのでしょうか。いいえ、むしろ喜びにあふれて帰って行きました。いったいどうしたというのでしょう。
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。(使徒の働き5章41、42節)
迫害や苦しみを受けることが良いのではありません。殉教することが素晴らしいのでもありません。どんなことがあろうとも守り抜きたいと思えるほどの素晴らしい信仰を与えられていることに大きな価値があるのです。神は訓練を耐え抜いた私たち一人ひとりに報いて、喜びで満たしてくださいます。それは金メダルを得た時のような喜びかも知れません。けれども、それさえも、私たちが永遠に神とともに住むことを許された栄誉と特権に比べれば、取るに足りないものです。
私は、命をかけて信仰を貫いた殉教者たちや使徒たちが、それぞれ自分たちが持っていた名誉や位を投げ捨てて、贖いの子羊となられたイエスの前にひれ伏す姿を何度も想像ました。全ての罪をゆるされ、救われて神の前に出るにふさわしい者とされることがどんな大きな名誉にも比べられない喜びであることを思い知らされます。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
日本主事 桜井 剛