No.201610 イエスの祈り
御名、御国、みこころ、日ごとの糧、赦し
御名があがめられますように。
その御名とはどのような名のことを言うのでしょう。それは「天にいます私たちの父」という新しい名です。これこそ人類が今まで知らずにいた神のご性質を最もよく表しています。
旧約聖書では「聖なる神」がそのご性質を表すために普通に用いられた名でした。その名はどのようにあがめられるのでしょう。まず、神ご自身がお始めになります。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちに
あがめられ、全地にあがめられる」。(詩篇46章10節)
まず初めに、神の子どもとされている私たちの間で神の御名があがめられますように。私たちの聖い生き方を通して神の聖さがあかしされますように。それによって世の人々が聖なる神の存在に気付きますように。こうして御名が全地であがめられますように。これが私たちの祈りです。これを漠然とした言葉だけの祈りではなく、私たちの日常生活と結びついた祈りとしましょう。この聖なる神が私たちの天の父なのですから。
御国が来ますように。(マタイ6章10節)
父なる神は王であって、その王国を支配しておられますその子である、相続者は父の栄光と繫栄以上に望むものはありません。従って、その王国が危機に瀕している時は情熱を燃やしてその国の栄光を守ります。 今神の子どもたちが住むこの世界はまだ、敵の支配下にあって、天の御国の栄光が完全には支配していない領域におかれています。父の御名に栄光があるよう願うことを学んだ人々にとって、心からの情熱を込めて御国が来ますようにと叫ぶことはごく自然です。神の国が地上に現われることは、父なる神の栄光が明らかに顕わされることであって、神の子どもたちに大いなる祝福がもたらされ、全世界の救いが完成する偉大な時となるのです。私たちの祈りも御国の到来を待ち望む祈りです。人類の贖いが完成するのを待ちわびる叫びの声に、私たちも「御国が来ますように」と呼応しようではありませんか。
イエスの祈りの手本の中からもそれを学び取りましょう。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節)
御国においては神の御心が常に行われていますが、地上には罪と罪から来る苦しみが満ちています。
こんな小さな自分に何ができるかと絶望しないでください。あなたには大きな力が与えられています。
「みこころが地でも行なわれますように」と祈る力です。それがみこころを自分の周りにもたらすことになるのです。神のみこころは天の栄光であり、それが地上でも行なわれることは天国において大いなる祝福となるからです。
みこころが行なわれることによって天の御国はその人の心にやって来るのです。信仰によって父なる神の愛を受け入れるところには、みこころを受け入れる従順な心が生まれます。神に全てを委ねて天の御国にいるような従順さを持った祈りは幼子のような素直な祈りとなるのです。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6章11節)
神の子どもたちが、まず始めに、御名と御国とみこころについて、神に自分自身の全てをゆだねたなら、次には、自由に日ごとの必要を求めることができます。
主人はしもべたちの日々の食事のことを心にとめます。先生は生徒たちを、父親は子どもたちの必要を心にかけてくれるものです。自分のことを差し置いて、先ず、神の栄光を求めて祈る子どもたちを天の父なる神が心にとめてくださらないことがあるでしょうか。私たちは安心してこう言うことができます。「私はあなたの誉れとあなたの働きのために生きてまいります。あなたが私のことを心にかけてくださることを知っています。」神とその御心に任せ切っているなら、毎日の生活の中で一時的に起こって来ることについて神に願うことをためらう必要はありません。
この地上での営みに必要なものは全て天の父が愛をこめて用意してくださいます。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6章12節)
日ごとの糧が私たちの体のための第一の必要だとするなら、赦しは魂にとって第一の必要と言うことができます。ですから、その一つが満たされるならもう一つの必要も必ず満たされます。罪を持って生まれた私たちが父なる神の臨在に近づくことが出来るために、イエス・キリストは十字架で流された尊い血によって私たちの罪を完全に贖い、赦してくださいました。私たちの本質的な罪は神の前には完全に赦されているのです。イエスを心に受け入れた人は、すでに神の子どもです。この事実を信仰によってしっかり受け取ってください。神との関係において、自分が赦されているという確信を持つことは、天に向けられた表現です。ほかの人を赦すことはその地上における表現です。
互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3章13節)
しかし、私たちは神の子どもとしてまだ完成してはいません。地上に生きる間は弱さゆえに日々過ちを犯してしまいます。そんな時には、すぐに赦しを求めて祈ることを忘れないようにしましょう。