No.201701
今月から新しいシリーズを始めます。皆さんが日頃から疑問に思っておられること、クリスチャンとしてどのように対処すべきか迷っておられるようなことを取り上げて、それに対する適切な対応をご一緒に考えてまいります。
このシリーズで取り上げることがらは、日頃誰もが感じているようなごく一般的な課題です。もしかしたら、みなさんご自身も日頃から感じておられることかもしれません。ですから、「自分のことを言っているのではないか」と感違いをなさることもあるかもしれませんが、決してそのようなことはありません。日頃から皆さんにはっきりと申し上げているように、皆さんの個人的な事柄はどんな小さなことでも個人情報として秘密厳守しています。外部に漏れることはありません。皆さんが安心して祈りのリクエストを送ることができるためです。
シリーズ1、初詣は偶像礼拝では?
さて今月は新年でもあり、古来からの行事がたくさん行なわれました。日本は宗教的な行事が多く、しばしばクリスチャンを悩ませます。
あるクリスチャンがこう言いました。「あの人は自分はクリスチャンだと言っていたのに初詣に行ったんだって。初詣は偶像礼拝の罪じゃないのか。」
皆さんの中にも、同じような疑問を持たれる方がおられるのではないかと思います。そう考えてみると、多くの日本の行事が宗教と深く結びついていることが分かります。とは言っても、ほとんどの人がそれを信じているわけではなく、宗教心があついわけでもありません。あくまでも自分の利益のためであり、自分に安心感を求めて行なっている習慣です。
聖書ははっきりと偶像礼拝を戒めています。まことの神以外のものに、神に対するのと同じ信仰を寄せることは、不誠実であり、神への裏切り行為だからです。けれども、「それが偶像礼拝かどうか」ということよりも、その人と神との関係がどれほど親密であって「本当の神をどれほど真剣に愛し慕っているか」の方が重要です。他人がそれを判断することはできません。神の前に立たされたとき、自分の行ないをどう言い訳するかはその人の問題だからです。
オバマ大統領が就任して間もない頃、来日し皇居を訪問して天皇陛下に挨拶をしたことがありました。その時オバマ大統領が深々と頭をさげて挨拶をしたことが大きな話題となりました。オバマ大統領はそれによって天皇に対して服従を表したのだろうかと心配する人さえありました。
真夜中に突然アメリカから電話がかかってきて、ラジオ局のプロデューサーがこう言うのです。「今、生放送中ですが、大統領が日本の天皇にあのような挨拶をしたことがアメリカでは大きな話題になっているので、一言、日本人としての生の意見を視聴者に聞かせてもらえませんか。」真夜中に突然の電話でそう言われても、何と説明すればいいのか迷ってしまいました。
「日本では公式の挨拶は深々と頭を下げて礼儀を尽くすことが習慣になっていますが、それによって服従を表わしたとか、礼拝をしていると思う人はいないと思います。」と言ったように記憶しています。けれども、それで多くのアメリカ人が納得してくれたかどうかは分りません。
人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル第一16章7節)
本来クリスチャンは外面的な振る舞いや習慣よりも、内面的な心の持ち方を大切にするものです。信仰生活も教会の礼拝も、形式的な習慣ではなく真剣に神と向き合い、神への愛と信頼にもとづいた服従を意味するものです。形式や習慣だけで礼拝をし、口先だけで祈りをとなえることを繰り返していると、いつしか、偶像礼拝者と変わらなくなってしまいます。どんな宗教行事に参加しても信仰の良心が痛まないのです。
あるいは、自分の信仰を顧みるよりも、人の行ないを批判するようになり「あの人はクリスチャンなのに初詣に行った」と非難してしまうのです。
行ないを批判するよりもその人が神とのよい関係を築けるように、何か自分にできることはないだろうかと考えてみてください。小さなことでかまいません。笑顔でひとことやさしい言葉をかけてあげるだけでもいいのです。神がそれを用いてくださいます。その人が神にだけ信頼を寄せ、真剣に愛するようになれば、平安と喜びが溢れ、自然に偶像礼拝から遠ざかります。
もし、皆さんの中で、初詣に参加してしまった、という方がおられても、その行ないで自分を責めるよりもむしろ、それを平気で行なった自分と神との関係を心配してください。神はあなたを赦してくださいますが、本当の祝福と平安を受けるためにはあなたの信仰が真の神にだけ向けられるべきです。人がどう思うかではなく、神があなたをどう見ておられるかを大切にしてください。あなたを愛し、あなたのために最善を行なってくださる神への揺ぎ無い信仰を築いてください。
この原則は他の宗教行事にも適応できます。けれども、人に対してではなく、まず自分自身に当てはめて考えてください。そうすれば、あなたと神との関係が生き生きとした素晴らしいものとなり、日々大きな喜びと平安の中を歩むようになることでしょう。