祝福のメッセージ:2017ー02

No.201702   
         

イエス・キリストを信じなければ祈りは聞かれないのか

 祈りはただ願い事を申し上げることではありません。先ず、はじめに神との交わりを持つことが大切です。何度も繰り返して子のことを申し上げるのは、祈りの家族の皆さんの祈りが、神に届いて答えられる祈りとなってほしいからです。神は全知全能であり生きておられます。私たちの祈りに答えられないはずがありません。もし祈りが答えられないとしたら、それは私たちの側に何か問題があるのかもしれません。

 1.その祈りはどなたに向けられているのか。

 そんな人かよくわからない相手に、自分の大切な事柄を託してはなりません。

 最近はインターネットが発達して、誰もがメールやブログなど、コンピューターを使って一方的に自分の意見を発信したり送りつけたりしています。

 時には大変無責任な投稿もあって、大きな問題に発展することもあります。それを受け取った人がどう感じ、どう考えるかにはあまり関心をはらわず、とにかく自分の言いたいことを発信するのです。それが大勢の人の目にとまるために、大きな反響をよぶこともありますが、たいていの場合はそのまま埋もれてしまいます。それでも、発信した人はあまり気に留めないで、自分の言いたいことをいいつづけているようです。

 大切な人に大切なことを発信するときには、そうであっていいはずがありません。自分の言葉が誰に向けられているのか、その相手にどう受け取られているかを責任をもって、しっかりと確認すべきです。そうすれば、思いがけなく人間関係がわるくなったり、誤解されたりすることが防げることでしょう。「そんなつもりではなかったのに」と、後からいくら弁解してもなかなかもとには戻りません。

 元日に、印刷された年賀状が差出人の名前の書かれていないまま届きました。年賀状は消印がないので、どこの郵便局から来たのかさえも分かりません。返事をさしあげることもできません。

 全能の神にたいする私たちの祈りがそのような祈りであって良いはずがありません。

  2.なぜ私たちの祈りはきかれるのか。

 神はなぜあなたの祈りを聞いてくださるのでしょう。神は愛だからです。穴とを創造してくださった神は、あなたをこの上なく愛しておられます。えれども、私たちと神との間には罪という大きな問題が横たわっています。

 神は完全であり、聖い方です。どんな小さな罪も赦すことはできません。

 そこで、神の独り後であるイエス・キリストを十字架の上で罰して、私たちの罪の台下を支払うことによって、罪を贖うことになさったのです。それができるのは神ご自身以外にはありませ。

 その恩恵によって、神に背くという大きな罪を負っていた私たちでさえ、もはや神に対する罪の責めをおわなくてもよくなりました。そればかりではなく、私たちは神がこの上なく私たちを愛してくださっているという確信がえられるようになったのです。

 イエス・キリストの十字架は、神が私たちを愛してくださっていることの証です。そこまでして私たちを愛してくださっている神が、私たちのためにそれ以外のことをしてくださらないことがあるでしょうか。

 ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8章32節)

 この事実を受け取って自分のものとした時初めて、神との関係が正常になるのです。そうすれば、私たちの祈りは神に届き、私たちは神の御心を知ることができるようになります。こうして神に届く、こたえられる祈りができるようになります。

 3.こたえられる祈りとはどんな祈りなのか。

 私たちはしばしば、自分が願っていることを本当に理解していない場合があります。あまり深く考えないで自分の欲しいものをねだるだけの祈りであってはなりません。子どもを甘やかし過ぎてだいなしにしてしまうような親とは違い、神は私たちの益になることを選んで行ってくださるのです。

 私たちのために最善を願っておられる神は、真実の愛をもって私たちの益になることを行なってくださるいます。

 甘いお菓子を次々と食べ続けていた子どもの健康を心配してお菓子を取り上げてしまった母親に向かって「ママの意地悪。もうママなんか嫌いだ。」といって泣いている子どもを見たことがあります。私たち人間も、神に向かってそんなことをしてはいないだろうかと身の引き締まる気持ちでした。実際「こんなに祈っても祈りがきかれない。もう神なんか信じられない。」と言う声を聞くことがあり、悲しくなります。

 神は私たちの祈りを聞きたくないのではありません。私たちのために最善を行なおうとしておられるのです。

 人間と同じ姿でこの世にこられた神の子イエス・キリストを通して私たちは神がどんなお方かを知ることができます。イエス・キリストを知らなければ神を知ることはできません。神を知らなければ、神にこたえられる祈りをすることもできません。

 私たちの祈りは、イエス・キリストを信じて、神との親密な関係をしっかりと築いてささげられるとき初めて、御心にかなった聞かれる祈りとなるのです。