No.201703
イエス・キリストについての記録は聖書以外にもあるのですか
イエス・キリストの実在については新約聖書の四つの福音書と使徒の働きの中に繰り返し細かく記録されています。歴史上の人物についてこれほど細かく記録したものはほかにはあまり例が見られません。
聖書がキリスト教の聖典と呼ばれているために、聖書の記録は全て一方的にキリスト教を擁護するために書かれたものであるかのように思われていますが、実際には極めて客観的に歴史的な事実を記録しているのです。もちろん、聖書は当時の歴史上の出来事を全て日誌のように記録しているわけではありません。けれども、歴史上の出来事を記録するために書かれたものではないために、当時の人々の感情的な描写や、信仰的な記述が含まれていることも確かです。それを取り上げて、真実ではないかのように議論する人が多いことは大変残念です。聖書の中に書かれているというだけでその記録の信頼性がないと言うことはできません。その記録の多くの部分が歴史的に正しいことが既に証明されているからです。
イエス・キリストについての当時の記録の重要な資料のほとんどは聖書の中に取り入れられているために、その生涯に関する記録は、聖書以外の書物や記事の中には比較的少ないことも確かです。それでも聖書以外の記録を求めている人のために、ほかの歴史的な記録を探し出すことはできます。
キリスト教以外の多くの宗教の中に見られるように、自分たちの心情を擁護するために事実ではないことを意図的に記録したり、事実を大きく曲げて書いたりすることは、聖書の記録の中には見られません。その上、聖書は何世紀にもわたって厳しい批判を受けて、多くの学者たちによって吟味され続けてきたにもかかわらず、なお、その歴史的な価値を保ち続けているのです。
新約聖書の四つの福音書と使徒の働きは、イエス・キリストを信じた弟子たちが実際に見聞きし体験したことが書かれています。記録をした人々の主観的な描写があると言われていますが、実際に彼らがイエス・キリストの生涯を見届けたことの記録であるという点では歴史的な価値や事実の正確さは、ほかのどの歴史的な記録にも劣ることはありません。また、その信頼性が疑われるものでもありません。
けれども、あえて聖書以外にイエス・キリストの生涯を記録している歴史的な書物を求めようとするなら、そのような記録を見出すことも可能です。
- ユダヤ人の歴史家、ヨセフスによる記録
ヨセフスは実際にはキリストを見たことも会ったこともないと言われていますが、キリストの実在当時の出来事を通してイエス・キリストの存在を示唆する記録が残っています。当時はイエス・キリストの存在が大きな話題となっていたためにその時代の出来事を記録するどのような歴史的な記述の中にも無視することのできないことだったのです。ナザレのイエスが実在したこと、兄弟ヤコブが石打にされたことがヨセフスの記録の中に残っています。
- ユダヤ教の聖典のタルムードの中にもイエス・キリストの実在を証明する記録があります。彼らは、キリスト教を激しく嫌い、迫害しましたが、キリストの実在そのものについてははっきりと著述しています。それどころか、キリストのおこした数々の奇跡についても否定していません。
- ローマの歴史家タキトゥスはイエス・キリストが総督ピラトのもとで十字架で処刑されたことを、その出来事のわずか58年後に、年代記の中に書いています。同時代の歴史家ルチアも同じ記録を残しています。
- タキトゥスよりも若いプレリーはシリアの護民官だった頃、イエス・キリストの十字架刑について記録を残しています。
- ローマの著述家スエトニウスは、キリストと呼ばれる人物の教えを受けた人々がローマで増え広がっていることに危機感を覚えた役人たちがユダヤ人をローマから追放したことを記録しています。
- 最後に、最も多くの歴史家によって書き残されている出来事として、ローマ皇帝ネロによる大々的なクリスチャン迫害の記録を上げることができます。
それは、イエス・キリストの十字架からわずか38年後の出来事でした。これによって、当時既に多くのクリスチャンたちがいたことやイエス・キリストを直接知っていた人々が生きていたことが証明されています。当時イエス・キリストを信じその教えに従っていた人々は命をかけて自分たちの信仰を守り抜きました。実在しない人物や見てもいない事実のためにこれほど多くの人々が命をかけるでしょうか。
以上のように、イエス・キリストが実在したことを証明する歴史的な記録は数々残されていますが、具体的にその行ないや言葉を細かく残しているものは新約聖書以外にはありません。
多くの人々はイエス・キリストの実在について疑問を投げかけますが、実際に数々の歴史的な資料からその実在が明らかにされても、実在したことを証明するだけでは何の意味もないことが分かります。イエス・キリストがどのような方で、私たちのためにどんなことを教え何を行なってくださったかを知ることにこそ意味があるのです。それを教えてくれるのは新約聖書の記録以外にはありません。