親愛なる祈りの家族の皆様。
私は自分が大変な病気を持っているということを知ってからは、今までの人生を振り返って、いかに多くの恵みと祝福を受けてきたかを思いひたすら感謝し、御心にしっかりと信頼を置くことに努めてまいりました。
多くの皆さんが、私の病気が癒されるように祈ってくださっていることを知って感謝していますが、私自身「主よこの病気を去らせ私を癒してください」と祈ることにためらいがありました。それはあまりにも自分勝手で欲張りのように思えたからです。人はどれほど祝福を注がれ何才まで生きたら満足するのでしょうか。
入院して2回手術を受け、小さくしぼんでいた肺がもとの大きさにまでなり、呼吸もたいそう楽になりました。これから本格的に中皮腫という病気にどう立ち向かうか、という段階です。
医師からいろいろな選択肢を示されました。右肺摘出手術、抗がん治療、放射線治療などです。何もしないという選択もある、とも言われましたが、それは癒されるという選択ではありません。実際、医学的にはそのような選択はなく、癒されるとしても、それは私が選択できるわけではなく、神が選択なさることです。けれども、それを求めて祈ることは私が選択しなければならないのです。
イエスは捕えられる前の晩にゲッセマネの園でこうお祈りになりました。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイの福音書26章39節)
何も求めないで「主よ、あなたの御心のままになさってください。」とは言っておられません。
求めることは自分が何を必要としているかを自覚することでもあります。もう少し長く生きられることを求めるのなら、長生きをするに値する、どんなことをしようとしているのでしょうか。ただ漫然と長く生きるだけなら、死を待つことと同じです。人は誰でも必ず死ななければならないからです。そういう意味では祈りのリクエストは神の前で自分自身に問いかけることでもあります。
今までに私が受け取った祈りのリクエストの中には色々な内容があります。願い事をたくさん書いてくださるものもあります。自分にできることや自分でしなければならないと思っていることを祈りのリクエストにしているものもあります。答えられた後のことをあまり具体的には考えていない祈りもあります。全能の神に祈るのですから答えられることをもっと期待してもいいのです。中には主に感謝しつつ、主をほめたたえ、信仰をもって祈り、答えられた時のことを考えてそれに備えることさえ考えている方もおられます。祈りが答えられたことを証して神をほめたたえる祈りをする方もあり、とても励まされます。けれども、どの祈りも大切です。どんな時にも祈りを聞いてくださる神に信頼しているから祈るのです。
誰もが、それぞれに自分のせいいっぱいの気持ちで悩み苦しみを真剣にうったえて助けを求めているのです。その祈りが、救い主であられるイエス・キリストに向けられている限り、神の前には尊いのです。主はその全てを知ってくださり受け入れてくださいます。
イエスは飼う者のいない羊のように迷い出ている多くの群衆を見て深くあわれまれました。単純に助けを求めることを決して軽く考えてはおられませんでした。その人の気持ちになって深くあわれんでくださいます。けれども、私たちが考える通りになることが一番よいとは限りません。祈りの答えは、主が全知全能の知恵に従ってその人にとって最善を行なってくださることです。
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。(マタイによる福音書9章35、36節)
祈りは神と心をつなぐことです。私は、皆さんからの祈りのリクエストをその人の気持ちになれるように努めながら、読むようになりました。するとその一つ一つの中に、心からの叫びがあり、助けを求める切なる願いが込められていることをいっそう強く感じるようになりました。未熟で身勝手な願いのようなリクエストもありますが、その人にとっては切なる願いであり、心からの叫びに違いありません。主は、そのような願いを、「未熟な身勝手な願いだから駄目だ」と言って退けなさるでしょうか。考えに考え抜いた人の祈りも、未熟な祈りも、神の前にはどれほど違いがあると言えるでしょうか。私たちの思いを遥かに超えた全知全能の主が、全ての人に対して、一人ひとりの気持ちにまで低くなってくださり、同じように寄り添って憐れんでくださっているのです。 もし神が私をもう少し長く生かしてくださるとするなら、私の役目はこれだと思いました。
祈りがその人の心からの願いであり、イエス・キリストに向けられている限り、主はどんな祈りであっても決して退けることはなさいません。ですから私も、どのような祈りのリクエストもその人の気持ちになって、救い主、イエス・キリストにとりなして祈っています。
けれどもイエス・キリストに向けられていない祈りのリクエストをとりなすことはできません。どうかあなたの祈りのリクエストをイエス・キリストに向け、イエス・キリストの名を呼んで祈り、それから私のもとへお送りください。救い主イエス・キリストをこの世にお送りくださった神は、あなたの切なる願いにこたえてくださいます。私も、あなたの気持ちになってご一緒に祈ります。祈りの答えがあなたの目にどのように見えたとしても感謝して受け取ってください。イエスを信じ、イエスに信頼してお任せしている限り、全てがあなたの益となります。何も心配しないでイエスを見上げて進んでください。神はどんな状況からでも、あなたのために最善を行なってくださいます。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛