祝福のメッセージ:2017ー05

No.201705

クリスチャンは教会に行かなければいけないのですか

 クリスチャンになったらたいていの人は教会の礼拝に集うようになります。祈りの家族の中にも、すでにキリスト教会としっかりとつながりを持っている方がおられます。日本ではイエス・キリストを信じて洗礼を受けると自動的にその教会の会員になる場合が多いようです。けれども、教会を通して信仰を持ったのではない方や、交通手段や健康の事情で近くに良い教会が見つからないので、まだ特定の教会とつながっていない方もおられますが、イエス・キリストを信じているなら必ず信者とのつながりが持てます。

 信者になったら特定の教会に所属しなければならないのかという質問は、教会の本質に触れる課題です。イエス・キリストを信じた人は誰でもキリストの側につく者です。特定の集団の中に入らなくても、地上でキリストの行ないを表わし伝えているのです。

 今回はイエス・キリストの教会とは何か。教会が持っている大切な意味、そして、地上の教会の素晴らしい点と、問題点とをご一緒に考えたいと思います。

 教会は建物のことではありません。世界中に大きくて立派な教会堂がたくさんあります。特にヨーロッパでは古くからの大聖堂が歴史的な遺産として今も残っていますが、聖書の中で教会と言われているのは、家庭などで一緒になって、祈りや交わりによって信仰を励まし合う信者たちの集まりのことでした。

 イエスが福音書の中で2度、教会と言われたのは、十字架と復活以前に、イエスを信じていた人々が、個人的なつながり以上の集合体となっていたことを示しています。その後、イエスを救い主であると信じていたユダヤ人の群れを教会と呼ぶようになりました。イエスが去った後、ユダヤ人以外にも信仰を持つ人々が大勢加わるようになると、旧約聖書の教えに基づいたユダヤ的な習慣を強調しなくなり、キリストの教えを中心とした教会が民族を超え地域を越えて世界中に広がっていきました。教会は瞬く間に、ユダヤとサマリヤの全土、さらにローマ(当時の地の果て)にまで広がりました。

 遠くに離れていた教会のために、統一の教義が制定され、役割の分担のため組織を持つようになると、群れの力は強くなり、成長して広がる速度も速くなる反面、迫害や対立という対外的な問題や、仲間どうしの内面的な問題も起こりました。新約聖書の後半にあるパウロの手紙でも、こうした問題がすでに扱われ教えられています。

 2000年の歴史の中で、失敗はいろいろありましたが、改革や信仰復興を通して成長しきました。しかし、個々の群れには良い評判と同時に人間的な問題も起こっています。いつの時代も、人の集まりには必ず問題が起こります。完全な人間などいないからです。けれども、キリストの教えを中心に持つ群れは、自浄力を持っています。

   多くの方が「教会にたどり着いて本当の平安を得ることができた」と証言しています。イエスの教えは、罪の赦しであり、愛の実践であり、永遠のいのちの約束です。その教えを重んじている教会なら真の安らぎがあるのです。罪の呵責からの解放があり、本当の愛が示され、互に赦し合い、愛し合うことが教えられているからです。教会の一員である一人ひとりがこれを実践することが求められています。素直に心を開いて、互に赦し合い受け入れ合っているところに、神はますます栄光を顕わしてくださいます。

 中には「教会は不親切で何もしてくれない」と言う方もおられます。確かに、人の集まるところにはすばらしいことばかりではなく問題も起こります。教会も、もともとは罪人だった人々の集まりです。ただ、その罪もイエスを信じて全て赦されるのです。

 もし、教会に問題を感じたら、自分も教会の一員であるという原点に帰るべきです。「何もしてくれない」と感じるのは、自分自身も他の人のために何もしていないことを意味しています。不親切だと思うのは自分もその人を赦さない厳しさを持っていることになります。親切に声をかけてくれる人がいないと感じたら、自分から声をかける人になればいいのです。どんな反応が返ってきても心配する必要はありません。そこに属している限り、その人も自分も群れの一員だからです。必要を感じたら自分がその役割を負えばよいのです。教会は誰かではなく自分を含めた群れ全体のことだからです。

 教会について聖書が教えているもうひとつの定義があります。それは、教会を構成する私たち一人ひとりはキリストの体の一部分を地上で表わしていることです。

 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
 (コリント人への第一の手紙12章12節)

 それは、一人ひとりは役割が違っていても大切な役割を持っているということです。皆が同じでなくてもいいのです。皆が顔のように目立たなくてもいいのです。皆が頭脳のように中心的な役割を持たなくてもいのです。どんな小さな部分であってもそれがなくては体が成り立ちません。教会も各自に役割がり、全ての人が必要で大切なのです。

 主は私たちが弱い不完全な人間であることをご存じです。ですから、いつでも試練とともにそこから抜け出す道も備えてくださっています。わがままになってはいけませんが、いつまでも辛さに耐えて、そこにとどまっているだけでは良い教会は育ちません。出て行って、もっと良い場所を見つけ、今までの何倍も人々に奉仕する人になれるなら、キリストの教会全体の益となるのです。そこが本来あなたのいるべき体の部分です。

 ですから、イエス・キリストを信じたなら、キリストの栄光と誉と良い評判を地域と全世界に広めるために、ぜひ教会の一員となって、あなたの役割を果してください。

 そういう意味では、祈りの家族も、色々な事情で教会に行けないでいる人のために教会としての役割の一端を負っていると言うことができます。