No.201707
なぜイエス・キリストを信じるだけで罪が赦されるのでしょう
この質問は天地創造の神と人類とにかかわる、とても重大な質問です。限られた人間の知恵で簡単に答えの出せるものではありません。多くの学者たちが聖書の中から説明を試み、たくさんの書物にもなっていますが、誰にも分かりやすい決定的な答えはありません。それは答えが間違っているのではなく、それを知性で理解しようとする人間に限界があるからです。人は神の心を完全に知ることはありえないのです。
私の答えも、誰もが納得する完成した答えにはならないことでしょう。私もイエス・キリストを神から遣わされた救い主と信じて罪が赦されていることを確信していますが、それを説明することは簡単ではありません。祈りの家族の皆さんが神の前に罪の無い者とされて、共に神の国を目指してくださることを願い、心を込めてご説明します。
人類創造と完成をめざす旅の始まり
聖書は「全ての人は罪びとであって、正しいと言える人はいない」と言っています。
義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
(ローマ人への手紙3章10-11節)
悪を行なうことが罪ではありません。悪を行なってしまうことは罪の結果なのです。
人は悪を行うから罪人になるのではなく、罪人なので悪を行なってしまうのです。
神に造られた最初の人(アダム)は創造されて間もなく、罪人であり永遠には生きられないものであることが明らかになります。
「食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。
あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章17-19節)
なぜ神の傑作とも言うべき人間に罪が入り込んだのでしょう。単純に誘惑に負けたから、と言うよりも、最終的な完成のために通らなければならない第一歩だったのです。
人は、神に似たものとして創造されましたが、神と同じではありません。神は造られた人(アダム)をご覧になって、その時点ではこれを良いとされました。
他の被造物の完成は人類完成のための舞台でした。人類の完成への旅の始まりです。
2.人類の失敗と挫折
アダムとその子孫たちが神の命令に背くことも、罪の苦しみを背負って生きることも、完成を目指すために通るべき行程でした。人類は地上に増え広がり、神との霊的な交流を通して、完成に向かって歩み出しました。
神に選ばれたアブラハムとイスラエル民族を通して、神の御心に従うことと背くこととの大きな違いが何世紀にもわたって歴史の中に示されることになりました。
イスラエル民族は神の国の建設にはほど遠く、排他的な民族となってしまいました。
どんな個人の中にも選ばれた民族の中にも、神が目指す完成された人の姿はありません。こうして人は神の前に罪びとであることが、決定的に示されることになりました。
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章12節)
歴史の上に浮上する神のご計画
神の御心に従いきれない姿をさらけ出した人類は、もはや神の憐れみに頼る以外にないところに到達したのです。「時満ちて」と聖書が予言している救い主、神の子イエス・キリスト降臨の時となりました。神の救いの計画が歴史上にその姿を現わしたのです。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9章6節)
人類の完成が近付いたのです。信仰によって神と人とが一つになるためです。そのために神ご自身である救い主が神から遣わされました。
恵みの時代
御子イエスの御名を呼び求める者は誰でも救われる、という恵みの時代が始まりました。私たちは今、その時代の真只中に生きています。何という幸いでしょう。
神の命令を守ろうとすることも、善を行なうことも、神の名によって理想郷を作ることも成し遂げ得なかった人類に、ご自分の独り子を与えるという大きな犠牲を払って近づき、罪を取り除いてくださいました。それゆえに、神の憐れみの御手にすがって、イエス・キリストを受け入れた時、神の霊が人の中に生き始めます。その時初めて人は神に背こうとする罪の性質を打ち破って、神の思いに寄り添う心を持てるようになります。
初めから神と全く同じ人間をお造りになるとしたら、それは被造物ではなく神ご自身です。神に背けない従順な人間をお造りになるとしたら、それはロボットです。けれども、神から独立した被造物として、神の意志に背くことさえできた人間は、神ではなく、神の友として造られた特別な存在です。それゆえに神に背き、神に対して罪を犯すという、神とは全く違う性質を持つものでした。
そのような人間に、神はご自分の一部分であるイエス・キリストを与えることにより救いの道を開いてくださいました。人はイエス・キリストを信じて受け入れたとき、罪人として神に背き続けてきた古い自分を脱ぎ捨てて、罪のない完成された被造物となるのです。
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3章9、10節)
祈りの家族がそろって、イエス・キリストを信じ、神の霊的なご性質を受け継ぎ、完成した姿となって神の国に入ること、それが私の願いであり、生きる目的です。