2017年9月10日
親愛なる祈りの家族の皆様。
あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(コリント人への第一の手紙10章31節)
何をするにも、神の栄光を現わすためにしなさい、と聖書は教えていますが、私たちは実際に何をしたら神の栄光を現わす者となれるのでしょう。食前の感謝の祈りを心を込めてささげることを習慣にすればいいのでしょうか。もちろん、飲食だけのことを言っているのではありません。
では、神の栄光を現わすためには、誰からも尊敬される品行方正で立派な人間になり、悪者をくじき弱者を助ける正義の味方になって、優れた働きや奉仕で社会に役立つことでしょうか。
それらはみな素晴らしいことです。けれども、私にはそれらのことは何一つできていません。これからもできないことでしょう。おそらく、ほとんどの方がそう思っておられることでしょう。安心してください。神はそういうことを第一のこととして、「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と言っておられるのではありません。
神が第一のこととして私たちに求めておられるのは、いけにえや犠牲や立派な行ないではなく、砕けた悔いた心です。謙虚な心で神に従う人には全ての良い行ないが自然についてくるのです。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇17節)
人に見られるための良いことではなく、目に見えない神に喜んでいただく事を目指すのです。
生まれつき目が見えないために、人々の憐れみにすがって生きていくしかない人がいました。人々はそれを見て、「この人が盲人として生まれたのは両親が何か悪いことをしたか、それともこの人自身に罪があったからに違いない」と思っていました。
イエスは言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネの福音書9章3節)。
この人には何の力もありませんでしたが、癒やされて見えるようになるとイエスを救い主と信じて、自分の身の上に起きたことを大胆に告白することで神の栄光を現わすために用いられました。
死んでしまってからでも神の栄光を現わすことに用いられた人もあります。取り立てて能力があったわけではありませんでしたが、人々から愛される人でした。ところが、彼の病気は癒されず、とうとう死んでしまいました。人々は大いに悲しみましたが、イエスはその先を見ておられました。
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」(ヨハネの福音書11章4節)
ラザロという名のこの人をイエスは復活させたためそれを見た多くの人がイエスを信じ、神の栄光が現わされました。彼は病気で死んでしまっても神の栄光を現わすことに用いられたのです。
あなたも神の栄光を現わすために用いられたいと思いませんか。私はいつもそう思っています。それは決して難しいことではありません。誰にでも出来ることです。しかも、それは何ものにも代えがたい、生きていて本当によかったと思えるような喜びをあたえてくれます。
私たちは祈るとき何を期待しているのでしょうか。祈りがきかれ願い事が叶えられることだけを期待しているのでしょうか。祈りがきかれることよりも、祈りを聞いてくださる神に対する愛と信頼が心に育つことがもっと大きく永遠的な価値を与えてくれます。自分の願いが叶えられることだけを求めているとしたら、神を利用するだけになってしまいます。たとえ病気が癒やされても、誰でもいつかは年老いて死ぬのです。死から復活したラザロも今は生きていません。クリスチャンの祈りは願い事が叶えられるだけで終るのではありません。祈りが答えられることによって神が栄光をお受けになり、神の愛を実感して神との信頼関係が築かれて永遠のいのちにつながるのです。
大勢の方が私の病気の癒しのために祈ってくださっています。私は何と恵まれていることでしょう。本当に感謝にたえません。けれども、今までどうしても「私を癒してください」と自分のためには祈れませんでした。大勢の方が私のために祈ってくださっているのに、いったいどうしたのでしょう。最近になって、癒しを求めて祈ることは自分のためだけではなく、祈ってくださっている大勢の方々を通して、神が栄光をお受けになるためだということに気付かされたのです。
癒やされたら、その大きな恵みに対して、私にどれほどのことができるのだろうと思っていましたが、癒すのも癒さないのも神がお決めになることです。神は祈りの答えの見返りとして私たちの働きを求めてはおられません。むしろ、この事を通してご自分の栄光を私たちに見させてくださるに違いありません。ですから、私たちに求められていることは、まず神の栄光のために用いられるような素直な信仰を持つことです。日々神とのかかわりを大切にして、神を第一にしていれば、私たちはいつでも神の栄光のために用いていただくことができるのです。
自分の信仰を公に表わすことはあらゆる悪い誘惑からあなたを守ってくれます。何をするにもあなたを通して神が見られていることを自覚するからです。ことさらに努力したり、強調しなくても、イエスを信じていることを告白するだけで、自然にそうなるのです。人前でイエスの名を恥ずかしめないよう努め、悪い習慣から離れ、人にやさしく親切にふるまうようになるのです。何事をするにもイエスの評判を高めることを願うからです。それこそ、神があなたの人生に与えようとしておられる賜物です。全能の神がそのような人に最も良いものをくださらないはずがありません。
こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。(へブル12章28節)
日々神の栄光を求め、ご一緒に御国を目指してまいりましょう。
あなたは愛されています。
レックスハンバード祈りの家族
桜井 剛