祝福のメッセージ
No. 201711
知識と共に、それを生かす知恵を求めましょう
キリスト教信仰に関する、様々な疑問や質問を扱いご一緒に考えてまいりましたが、今回はひと息入れて、それらの疑問や質問に対する答えをどのように生かすかについて考えましょう。イエスは言われました。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイの福音書7章7、8節)
ですから、どんなことでも疑問に思ったらその答えを求めることは良いことです。疑問をいだくことそれ自体は決して不信仰ではありません。
イエスご自身もしばしば色々な人々から質問を受け、それにお答えになりました。律法学者やパリサイ人は意地悪な質問を投げかけてイエスを困らせようとしました。そんな質問に対してさえもイエスは誠実にお答えになりました。しかし、彼らの心は悪意に満ちていたので、その答えの深い意味を理解できませんでした。弟子たちは何でもイエスに尋ねていました。
疑問を持つことは答えを見出し始める前兆となり得るものです。真理を知りたいという素直な心で問いかけましょう。
ニコデモというパリサイ派の学者が、夜こっそりとイエスのもとを訪ねて質問しました。
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」(ヨハネ3章2節)
彼はイエスが神から遣わされた教師であることは信じていましたが、その方に対して自分はどうすべきかが分かっていませんでした。
イエスはご自分が神から遣わされた教師であるかどうかには触れず、いきなり、ニコデモの心の奥にある質問に対してこう言われました。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)
イエスもまた弟子たちに質問をなさいました。それは彼らに改めて考えさせ、さらに深い真理に導くためでした。イエスは言われました。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16章15節)
ペテロが答えました。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16節)
ペテロの答えは正解でした。イエスは天地宇宙を創造した生ける全能の神の御子であり、人類を救うために遣わされた救い主キリストです。けれども、ペテロはその答えをどこまで理解していたのでしょう。彼の答えは救い主、キリストが通らなければならない十字架への道を理解した上での答えではなかったことが判明します。
イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(21節)
ペテロの答えは間違っていませんが、その深い意味までには及ばず、
「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(22節)と言って、イエスをいさめました。そこでイエスはこう言われました。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(23節)
質問に正しく答えることと、その深い意味を理解して、自分の人生の中に実際に取り入れることの間には大きな違いが有ります。
聖書の中でしばしば見られるように、イエスの答えは必ずしも単純ではありません。多くの場合、深い真理へと導く入口となるものです。
イエスの願いは、私たちがいだく疑問に対して単純な正解を積み重ねて知識を増やすことではありません。私たちが抱く疑問や質問の背後に秘められている、不安や迷いに対して深い思いやりをもって答え、知識だけでは得られない、知恵による平安へと導いてくださることです。
今の時代は、知識ばかりが目覚ましく発達して、それを人々の幸せのためには十分に活用できず、むしろ新しい問題で人々を苦しめています。
知識はそれを多くの人々の人生に生かして役立ててこそ意味があるのです。私たちの信仰生活の上での知識にも同じことが言えます。
信仰上の疑問や聖書の中に書かれていることばへの質問や疑問を持つとき、その答え知ることだけでなく、そこに秘められている真理に着目して、そこから信仰の成長に役立てる知恵を見出してまいりましょう。