祝福のメッセージ
No. 201807
すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしい
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音書3章13-17節)
新約聖書で直接引用されているイエスの最初のことばはイエスが12歳の時のことでした。それから18年の間はどのようなことばも、何をなさっていたかも記録されていません。ただ、ダビデの家系に長男として生まれたイエスは大工であった父ヨセフの仕事を手伝い、神を恐れる信仰深い両親から律法(旧約聖書)の教えを聞きながら育っておられたことは容易に想像できます。
イエスは30才で初めて公に姿を現わされました。ユダヤ人の伝統では、男子は30才になって始めて一人前として認められました。イエスはそのような習慣にも従い、その時が来るまで待っておられたに違いありません。
バプテスマのヨハネは、神から約束された救い主が今すぐにも来られることを知っていました。その道を備えるために自分はここにいるのだと確信していました。
「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。
私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」
(マタイの福音書3章11節)
バプテスマのヨハネの母エリサベツとイエスの母マリヤとは親戚関係にありました。御使いはまずエリサベツの夫ザカリヤに現れ、高齢の二人に特別な使命を負った息子が与えられることを告げました。その半年後に、御使いはマリヤにも現れて、救い主をみごもることを伝えました。マリヤは身重のエリサベツのもとを訪れ、その恵みを分かち合って共に神を賛美しました。
ヨハネは両親からこの話を聞き、深く心に刻むところがあったことでしょう。
ヨハネとイエスが幼少の頃出会っていたことも充分考えられますが、聖書にその記録はありません。二人は30歳で劇的な出会いをしました。
既に活動を始め、人々に悔い改めを迫り、バプテスマをさずけていたヨハネのもとに、イエスがバプテスマを受けに来られたのです。ヨハネはイエスが特別な方であることを既に感じていましたので「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに・・・」と断ろうとしました。
その時、イエスは「すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしい。」と言われたのです。これが成人なさったイエスの語られたことばの最初の記録です。
なぜか、私にはこのことばが心にかかりました。「すべての正しいこと」とは何でしょう。直接的にはバプテスマをうけることですが、それだけではありません。イエスはもちろんのこと、ヨハネにもその時、同じ目標がはっきりと見えていたことに私は気づかされました。それは人を罪の力から救い、神のもとに戻すことでした。そのために必要な「すべての正しいこと」がこれから実行されていくのです。それはヨハネにとってもイエスにとっても受難の道でした。
ヨハネは、バプテスマをお受けになったイエスの上に聖霊がくだり、「これは、私の愛する子」という神の御声が響いたことを目のあたりにして、この方こそ、救い主、世の罪を取り除く神の子羊と確信し、ただちにそれを人々に伝え始めました。
当時、ローマ帝国に支配されていたイスラエルの国をもとのような王国に復興することがユダヤ人の夢でした。 実際に、ローマの支配に抵抗して何度も反乱を企てた若者たちのことが記録に残っています。
けれども、イエスとヨハネはそれとは全く違った考えで国を復興させることを考えていました。イスラエルの人々が国を失う原因となったのは、彼らの信仰が形ばかりの律法主義で、聖さ、正しさ、愛といった大切な中身を失い、神から離れていたからです。彼らには地上の国を復興するよりも、先ず、信仰を復興する必要があったのです。
イエスとヨハネに神から与えられていた使命はイスラエルの人々をはじめとして、全ての人の心を神にたち帰らせることでした。
イエスは深い愛を示して、苦しんでいる人々をお助けになりました。けれども、イエスの言われる「すべての正しいことを実行すること」は、癒しや力あるわざだけではありません。
イエスにとっての「すべての正しいことを実行すること」は、人類の罪を贖うために十字架にかかり、命をささげるという道にまっすぐ続いていたのです。