No. 201811
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」
イエスのこれらのことばは、ユダヤ人の指導的な立場にあった、ユダヤ議会の議員の、ニコデモという人物との会話の中で語られました。この出来事はイエスが30才になられた、紀元後27年の4月ごろではないかと言われています。
イエスの教えは、それまでの宗教家たちの教えとは大きく違っていて、人々の心の目を、ぱっと開かせるものでした。その上、イエスのことばには権威があり、病の癒し、霊的な解放などの奇跡が伴っていました。イエスの人気は瞬く間に広がり、イエスの行く先々に、多くの人々がつめかけました。宗教的指導者たちの多くは自分たちの権威が地に落ちて、立場があやうくなるのを恐れて、イエスに敵意をいだき始めました。しかしニコデモは、イエスのうちに何かがあると感じ、敬意をいだいていました。
さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」(ヨハネの福音書3章1―8節)
イエスはニコデモが正直で真面目な人物で真理を求めていることを見ぬいて、おられました。ですから、ただちに、深い霊的な真理を切り出されたのです。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
イエスが、神から遣わされて、良い教えをする方だと知っているだけでは充分ではありません。新しく生まれなければならない、と言うのです。
ニコデモは面食らいました。旧約聖書の専門家で、国民のリーダーである彼がそれを理解することができなかったのです。勿論、もう一度母親の胎内に入って生まれて来ることではないことぐらいは誰にでも分かります。人間の命はそのようなものではありません。神に似た性質を与えられていて、他のどこにもない、一人一人に特別に用意された、ただ一度だけの尊い命です。
「では、新しく生れるとは?」、ニコデモの頭は混乱していたことでしょう。イエス・キリストによる救いを経験していなければ、体は生きていてもその霊は死んでいるのです。神から遣わされた救い主イエス・キリストの十字架によって神に背く罪の性質を取り除かれた新しいいのちを持つことが、新しく生まれるということです。ですから、誰でもイエス・キリストを信じて新生を経験しなければ、神の国に入ることはもとより、見ることも、知ることさえもできないのです。ただ、 「イエスは偉大な人物だった」と言うだけでは、実際に神の国との関係を持つことはできません。ことばを学ぶだけで終ってしまっては、本当の力を受けることはできません。新しく生まれ、そのいのちを活用して、キリストと共に生きる人生とならなければ神の国にはふさわしくないからです。神の国を見るとは、肉眼で見ることではなく、親しく知り、心で受けとめることです。
では、「水と霊によって生まれる」とはどのような意味なのでしょう。
水と霊によって生まれることを、多くの人は水のバプテスマ(洗礼)を受けることと理解しているようです。間違いとは言えませんが、洗礼を神の国に入るためのパスポートのように考えてはなりません。洗礼は、今までの自分を水に沈め、イエスの教えに従った人生を生きるために生まれ変わったことを公に告白することです。この本質を忘れて、洗礼を単なる入門の儀式と思ってはいけません。
当時、すでに洗礼は公に行なわれていました。イエスも、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。それでも、イエスはここでは、洗礼と言うことばは使っておられません。「水と霊によって生まれる」と言っておられます。
水は外面的な体の清めを表しています。霊は、人の内面的な性質を意味します。新しく生まれる時、外面的な性質がきよめられ、さらに、神の前に出るにふさわしい内面的霊的な性質が与えられるのです。
人は罪の性質を持って生まれてきました。多くの弱さをかかえていて、しばしば失敗をし、間違いを犯します。それだけではなく、やってはいけないと分かっていてもそれを行なってしまいます。それは私たちの体が神の方向を向いていないからです。世の風習に惑わされて、的はずれの人生を送っているからです。新約聖書のギリシャ語の「罪」は「的はずれ」と同じ意味です。もう一方の、「風」と「霊」は新約聖書では同じ言葉が使われています。風が力を発揮するのは一定した方向に吹くときです。行ったり来たり渦を巻いたりしているのでは役に立つどころか害になります。正しい方向に吹く風は、季節を知らせ、豊かな実りをもたらし、船を目的地に走らせます。
外面的な性格や悪い習慣を清めて、罪の生活を離れ、霊的に神の方向を向いた生き方をすることによって、水と霊とによって生まれた者となることができます。それを公に告白することが水のバプテスマであり、そこから出発した新しい人生は霊によって生まれた人生です。神の国はそういう人のためにあるのです。
イエスとニコデモとの会話は、これから新約聖書の中心的なことばへと続きます。
それについては来月学ぶことにしましょう。