祝福のメッセージ:2019ー02

   

2019年2月

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4章19-24節)
 このみことばの背景にあるユダヤ人とサマリヤ人の歴史について先ずお話ししましょう。
 イスラエル民族はエジプトでの奴隷生活から解放されて、荒野で40年間の試練を経た後、約束の地、パレスチナに定住して、王国を建設しました。ダビデが国を統一し、その子、ソロモンがエルサレムに神殿を建設してそこが礼拝の場所となり、国の中心となりました。ところが間もなく王国は分裂し、南にエルサレムを中心としたユダ王国、北にサマリヤを中心にしてイスラエル王国ができました。そして長い対立の歴史が続きました。その間、民族は神に背いたり、悔い改めて神にたち帰ったりを繰り返し、ついにはアッシリアとバビロンによって滅ぼされて、人々は奴隷として連れ去られ、エルサレムもサマリヤも崩壊してしまいました。サマリヤに残った人々の間には他民族との混血が進み、これも差別の原因となりました。
 やがてローマがその地域全体を支配するようになりましたが、ユダヤ人とサマリヤ人との対立はそのまま続き、イエスの時代まで残っていたのです。
 イエスの時代にはユダヤ人はエルサレムの神殿で神を礼拝していましたが、サマリヤ人はサマリヤにあるゲリジム山を聖地としていました。
 サマリヤの女が「私たちの先祖はこの山で礼拝しました」と言ったのはそのためです。
 どちらも、モーセの律法を中心にしていて、多くの点で共通していました。彼女はその点を指摘して、どちらが正しい礼拝なのかをイエスに問いかけたのです。
 イエスの答えは、当時のユダヤ人の指導者たちにも、サマリヤの人々にも思いも よらない新しい時代の幕開けを告げています。「まことの礼拝者たちが御霊と真 理によって父を礼拝する時が既に来ている」とイエスは言われました。それはメ シヤ(キリスト)の到来によるものです。
 ユダヤ人もサマリヤ人も旧約聖書の律法を守ることが信仰の中心でした。イエ スもしばしばシナゴグ(ユダヤ教の会堂)で教えておられました。けれども、イ エスの教えはユダヤ人の律法学者たちの教えとは違い、律法の形式を守ることで はなく、その真髄を心から行なうことでした。
 律法を守ることは、神の教えと導きに従うことです。何事も自分勝手な意志で 行動するのではなく、神の御心に照らし合わせてそれにかなった生き方をするた めです。ですから、神が定められた律法を守ることは正しいことではありますが 、その守り方が問題です。当時のユダヤ人の多くが律法の守り方を自分たちの考 えで細かく規定して、その掟を守ってさえいれば良いと思っていました。彼らに は、神の愛と恵みをくみとって、その愛に応える行動として、律法を守るという 心が欠けていたのです。ですから、イエスがなさったように律法の教えの本質を くみ取って、神の御心に添うような行ないは、しばしば、ユダヤ人の律法学者た ちと対立しました。イエスが教えておられる礼拝の真の姿は、形式ではなく、礼 拝をする場所でもなく、神を愛し敬う心から出てくるものです。
 神を礼拝することは、神への願いごとではありません。 礼拝は全知全能の神の偉大さを心から崇めたたえ敬うことです。
 多くの偶像礼拝者は神を礼拝することと神にお願いすることを混同して、お願 いだけをして去って行きます。それは神を礼拝しているのではなく、自分のため に神を利用しているだけです。もちろん、偶像には初めから何の力もありません 。
 クリスチャンの礼拝は、その場所が教会であっても家庭であっても、迫害時代 のクリスチャンたちのように隠れた地下の洞窟であっても、神を神として敬い、 霊とまことを尽して礼拝するものでなくてはなりません。
 けれども、どのような形であっても、礼拝が形式だけで終わるなら、律法学者 たちと同じことになってしまいます。
 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽 くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。
 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと 同じように重要です。 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているので す。」 (マタイの福音書22章37―40節)
 クリスチャンはイエス・キリストを通して全知全能の唯一の神を知って礼拝 をしています。教会でも、家庭でも、また仲間が集まって祈り合うときも、礼拝の中心にはイエス・キリストがおられ、イエスを通して全知全能の神を愛し礼拝するのです。礼拝は神に向かって心を開き、神を愛し、神をほめたたえることです。
 エルサレムでもなく、サマリヤでもないところで、真の礼拝者が神を礼拝する時が来ています。今がその時です。
 そこにイエスが共におられ、イエスを通して神の愛を知り、神を愛する故に、隣人をも愛することができるようになり、すすんで日々神に喜ばれる歩みをすることができるようになるなら、それは真の礼拝です。神を愛する故に、神の教えを心から守り行なう人は、真の礼拝者であると言うことができます。
 祈りの家族は一人一人が、世界中のどこにいても、イエスの言われるような真の礼拝者になることを目指そうではありませんか。