祝福のメッセージ
2019年3月
「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。(ヨハネ4章25-30節)
礼拝の仕方についてイエスと語り合っていたサマリヤ人の女は、今度は話題を変えて、イスラエル人もサマリヤ人も昔から待ち望んでいた救い主、メシア、すなわちキリストの到来について話し始めました。
イエスと話しているうちに、救い主の到来を待ち望む心がふくれ上がって来たのです。その方が来れば、全ての苦しみから私たちを救い、悪や不公平を正してくださるに違いない,という望みを持っていたからです。
救い主の到来を待ち望むことはイスラエル人にとってもサマリヤ人にとっても長年にわたる大切な共通の課題でした。なぜなら彼らはもともと同じ一つの民族だったからです。
不思議に思うかもしれませんが、この女性のように、人々から生活の乱れた人間と思われていた人が、実は心の底ではメシアの到来をこのように熱心に待ち望んでいたのです。外に表れた姿や態度だけで人を判断することはできません。イエスはそれを見抜いておられたのです。「人は外の顔形を見るが、主は心を見る」のです。
人は概して外側しか見ませんが、主はあなたの心の内側の深いところにある悩みや苦しみや不安をもしっかりと見てくださっています。
「今あなたと話しているこのわたしが、あなたの全ての問題の解決者です。」とイエスは言ってくださいます。
イエスはここで、個人伝道の基本を私たちに教えておられるように思います。
世の中の人々は豊かさと快楽を追求しながらも、本当の満足がなく、心の底では、確かな平安を求めているのです。けれどもその平安がどこから来るものか知りません。私たちに与えられている平安と喜びをどうしたらほかの人に分けてあげることができるのでしょう。誰も興味をもって耳を傾けてくれる人がいないように思うことがしばしばです。けれども、多くの人々が幾世紀にもわたって待ち望んでいた救い主が、今の時代の私たちの間近に、あなたの心の中におられるのです。
イエスはこのサマリヤ人にご自分の正体を明らかになさいました。イエスはいつでも、人が心の中で真剣に救いを求める時、それをごらんになって、ご自分を現わしてくださいます。
旧約聖書の記述をよく調べていたユダヤ人の指導者、律法学者たちも、イエスが街のうわさどおりメシアなのかどうかを確かめたいと思いました。けれども、彼らの目はプライドと不信仰のために閉ざされていました。
「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。(ヨハネ10章24-25節)
けれども、このサマリヤの女の人は謙虚にイエスに向き合ったので、イエスのことばによって心が開かれていったのです。
彼女はこのように心の中で思いめぐらしていたでしょう。
「なぜこのイエスという方はサマリヤ人の女である私に話しかけてくださったの? 普通ユダヤ人はサマリヤ人を見下しているのに、なぜ、礼儀正しく『水を飲ませてください。』とおっしゃるの? なぜ、私のような評判の悪い女に対等にお話しくださるの? しかも、私のことを何もかも知っていらっしゃる!」
ユダヤ人への警戒心からイエスと距離をとっていた心はいつしか消えて、かねてからの希望が、突然現実のものとして見えてきたのです。「もしかすると、この方がキリストかもしれない。」彼女は持ち物を全てそこに置いたまま駆け出して行って、街中の人々にイエスのことを話し始めました。
人々が心の奥底で何を求めているのか、どうしたらそれを本人に気付かせることができるかを、イエスはこの出来事を通して私たちにも知らせておられるように思います。イエスとの出会いはどんな人の心にも希望の光を与えてくれます。
誰でもイエスとの出 会いを経験することによって、自分が本当に求めていたのは、この方だったと気付くのです。
あなたはもうイエスをあなたの救い主、またあなたの神として受け入れていらっしゃいますか。もしそうなら、安心してください。どんな状態の中におられようとも、あなたは本当に幸いな人です。