2019年4月
私にはあなた方の知らない食物があります。
わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。(ヨハネ4章29-39節)
彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
旅の途中、イエスがサマリアの町の泉のほとりで休憩しておられた時の出来事の続きです。そこに水を汲みに来たサマリア人の女は会話の中でイエスが話されたことに感激して、そのことを町中の人に知らせました。すると大勢の人がイエスに会いにやってきました。イエスが本当にメシヤかどうか確かめに来たのでしょう。
イエスは人となってこの世に来られたのですから、私たちと同じ人の姿でした。私たちと同じように、空腹も、のどの渇きも、痛みも疲れもお感じになりした。
荒野で断食の祈りをされたとき空腹になられました。(マタイ4章2節)
いちじくの木に実がないかと探されたこともありました。(マタイ21章19節)
十字架の上では、「わたしは渇く」と言われました。(ヨハネ19章28節)
この時も旅の途中で昼食時となったので、弟子たちが食べ物を買いに町に出かけて行きました。
イエスは「神から遣わされた歴史上の偉大な人物だった」というだけではありません。イエスは私たちと同じ人としてこの世に来られましたが、私たちと全く同じではなく、本質的には神です。
イエスがこの世に来られたのは、人の辛苦を共に味わい、人を救うためです。
多くの病人や体の不自由な人や空腹な人々をご覧になって、深い同情をお感じになりました。また、ラザロが病気で亡くなり、人々が深く悲しんでいるのをご覧になったときイエスは涙を流されました。(ヨハネ11章35節)
神が人を創造なさったとき、人は神と同じ霊的な性質を持った者として創られ、神と親しい交わりを持つことができました。けれども、神に背いて罪を犯したときから、その霊的な性質がそこなわれ、ますます罪を重ねて、神から遠く離れ、滅びの道を歩んできたのです。
イエスが「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と言われたのは、霊的な食物のことであり、罪のために私たちが失っているものです。
私たちの食物は肉体的な健康を維持するために必要なものです。それも大切ですが、イエスの食物とは次元が違います。私たちの食物は肉の食物ですが、イエスが言われた食物は永遠的な観点から、私たちの霊的いのちを生かすための食物です。
ここでイエスが弟子たちに言われた「あなたがたが知らない食べ物」とは、罪のために死にかけている私たちの霊を、再び生かして救うことです。神の救いのご計画を人々に知らせる働きです。なぜ、働きが食物となるのでしょう。
食物は私たちに喜びと楽しみを与えるだけではなく、私たちの体を強く育てるものです。けれどもそれによって私たちを正しく成長させてくださるのは神です。
霊的な食物も同様です。福音を伝える時、私たちは喜びと感謝に満たされます。けれども、私たちの信仰に従って霊的に成長させてくださるのは神です。
大勢の方が、救われてほしい人の名前を祈りのリクエストに書いて送り、自分でも、その方々の救いのためにお祈りしています。私は今も、皆さんが書いて送ってくださった名前を全て私のそばにおいて、毎日の祈りの時に心にとめて、その人たちが救われるようお祈りしています。私はその人たちが救われて、祝福されたクリスチャン生活を送るようになったらどんなに素晴らしいだろうと心に思い描いてお祈りしているだけです。その人たちを救いに導いてくださるのはあなたでも私でもなく神です。それが私に大きな喜びを与えてくれるので、私にとっては霊的な食物のようなものです。なぜなら、私は既にクリスチャンになって祝福された信仰生活を送っておられる方々を何人も知っているからです。それを知ることは、豪華なテーブルを囲んでごちそうをいただく以上の大きな喜びを私に与えてくれます。
日ごろ人々の目を気にしながら、身を隠すようにして生きてきたサマリアの女の人もイエスの話を聞き、それを信じて、町中の人々にイエスのことを伝えました。彼女の話を聞いた人々はそのことばを信じてイエスのもとに集まってきました。
サマリアの女の人も、イエスのことを「この方こそ待ち望んでいたメシヤに違いない」と、人びとに伝えることによって、今までに味わったことのない大きな喜びを感じたことでしょう。
霊のいのちを与える福音のことばを伝えることこそ「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」とイエスが言われた食物に違いありません。