2019年5月
目を上げて畑を見なさい。
色づいて、刈り入れるばかりになっています。
あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」
さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。(ヨハネ4章35-41節)
イエスがサマリアに数日間滞在しておられる間に多くのサマリアの人々がイエスを信じました。イエスに出会い、この方こそメシアに違いないと胸をときめかせてイエスのことを伝えた人がいたからです。
そこでイエスは弟子たちに言われました。
「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
折しもそれはちょうど今頃の季節で収穫前の畑では麦が元気に育っていました。農夫たちがそこに種をまき、水をやり、麦を育てていたからです。けれども、まだ収穫の時期ではありませんでした。そこで人びとは「まだ四か月あって、それから刈り入れだ」と言っていました。
けれどもイエスは、「目をあげて、もう一つの別の畑を見なさい。」と言われました。ここではイエスは麦の収穫のことではなく、魂の収穫のことを言っておられるのです。イエスがいつも心にかけておられるのは、一人でも多くの人が父なる神を信じてその魂が救われることでした。
私たちは気が付かないことが多いのですが、どんな人でも心の奥では魂の救いを求めています。
社会がどんどん進歩して格差が広がり、取り残されたと感じている人も多くなってきています。
取り残されないよう必死でがんばっている働く世代の人たちも、何が何だかさっぱり分からない世の中になったとあたふたしている老人たちも、同じように心の平安を必要としています。
イエスはそれを見ぬいておられるのです。あなたの周りの人々も、あなたの親しい友人も、たとえあなたが気付かなくても、心のどこかで、「自分はいったい何者なのだろう、何のために生まれてきたのだろう、命が終わったらどうなるのだろう」と思い、本当の安心が得られる魂の救いを求めているのです。イエスはそのような人を救いに導き、その魂を神の国に収穫したいと願っておられます。
私たちはしばしば自分で勝手に判断して「この人は信仰など求めていない」、「教会にも行く気がないし、聖書の言葉にも興味を持ってくれない」と、勝手に考えて、まだまだ収穫には時間がかかると思い、早々とあきらめてしまいます。
イエスが休憩しておられた井戸に、誰も来ない昼の間に水を汲みに来た、サマリアの女はどうだったでしょう。何人もの夫を持ったけれども、今では夫ではない人と人目を避けて生活していました。そんなふしだらな女が神を信じて救われるなんて、ありえない、と人は思ったかもしれません。けれども、その女性がイエスとの会話を通してイエスがメシア(救い主)であることを知りました。そして、街中の人々にそれを伝えたことによって多くのサマリア人がイエスを信じるようになりました。
私たちの周りでも、私たちが気付かないうちに、多くの人々の魂が心の平安を求め、救いを必要としています。収穫の時は私たちが気付かないうちに迫っているのです。イエスは「目を上げて畑を見なさい。」と言われました。
あなたの周りの畑はどのようですか。まだ収穫までには長い時間がかかると思っておられますか。あなたの友人、親戚、ご家族の中に「まだ、イエス・キリストについて聞いたことがいない」と言われる方はおられませんか。
人々が経験する一つ一つのことが、あるいは、困難に直面したり、切実な必要に迫られたりすることを通して、また、人の優しい心遣いにふれて、慰められたりすることを通して、イエスのことばを思い起こすかもしれません。そこに種がまかれている限り、いつか芽を出すことがあるのです。
どうか、イエスのような優しい心で、収穫を期待しつつ種をまき、水をあげ、手入れをしてあげてください。あなた自身でなくても、いつか誰かがその魂を収穫してくれるでしょう。
あなたが労苦して働きかけた魂の収穫の時は、思ったより早く来ているかもしれません。