祝福のメッセージ:2019ー06

   

2019年6

「行きなさい。あなたの息子は治ります。」

 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。
 さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」イエスは彼に言われた。
 「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。(ヨハネ4章43-54節)
 イエスはサマリアの女と出会ってその町に2日知財して伝道をなさった後、郷里のガリラヤに行かれました。そこはイエスが幼い時から育った所です。兄弟たちや親戚もいて、幼いころのイエスを知っていた人々が大勢住んでいたことでしょう。
 ユダヤ人であった郷里の人々の多くが、過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムに行き、イエスがなさったことや、群衆に向かって語られた言葉をききました。
 郷里の人々は、あのヨセフの息子が偉くなり、エルサレムでは律法学者や祭司長たちよりも素晴らしい話をなさった。「我々ガリラヤ人の誇りだ」とは思ったことでしょう。けれどもイエスが神ご自身であることは信じていなかったようです。
 イエスがエルサレムでなさったことのうわさはこの地方にも広がって多くの人がそれを知るようになりました。
 そのうわさを聞き付けたある王室の役人が、イエスがガリラヤに来ておられると聞き、イエスのもとにやってきて、「病気で死にかかっている息子のために、カペナウムに来て、息子の病気を癒してください」と頼みました。
 彼は王室の役人であり、地位の高い人物でした。ですからわざわざ出かけて行ってお願いすれば、カペナウムまで来て、病気の息子に手を置いて、厳かに癒しの奇跡を行ってくださるに違いないと思っていたことでしょう。けれども、イエスは彼に「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言われただけでした。彼は、その言葉を聞くとすぐに帰路につきました。ここに信仰の奥義が隠されているように思います。
 私はこの記事を読む時、いつもアラム(シリヤ)の将軍ナアマンの記事を思い起こします。ナアマンはアラム国王の信頼を受けていた将軍でしたが、らい病を患っていました。彼はイスラエルの地にエリシャという予言者がいて、神が共におられて多くの奇跡を行っていることを知りました。そこで彼は、シリヤ王からの手紙を携えて多くの金銀や贈り物を携え、家来たちと共に恭しくエリシャに会いに来ました。ところがエリシャは彼に会おうともせず、弟子の一人に「ヨルダン川で7回水浴しなさい」と言わせただけでした。誇りを傷つけられたと感じたナアマンは怒って帰りかけましたが、家来の一人が将軍をいさめて「エリシャがどんな難しいことや、たくさんの貢物を求めても、あなた様はそれをすべてなさったことでしょう。けれども、預言者はとても簡単なことを命じただけです」と忠告しました。そこでナアマンは気を取り直して、ヨルダン川で7回身を清めました。するとどうでしょう、彼のらい病は去り、幼子の体のようになり、きよくなったと書かれています。(列王記5章)
 私たちは祈る時、しばしば自分の願っていることを、自分の思う通りの方法で、自分の望む時に行なってくださるようにと求めがちです。そのようにして気付かないうちに神に指図してしまうのです。私たちは神よりも偉いのでしょうか。
 それでも神は、私たちへの愛と忍耐をもって、しばしば私たちの未熟でわがままな祈りを聞いてくださいます。しかし、それは正しい祈りの態度ではありません。イエスはそのことに気付かせて、祈りの答えを受け取る正しい方法を私たちに教えておられるのです。
 「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。(ヨハネ4章50節)
 イエスを信じることは、自分の思い描いているような方法で奇跡を行なってくださると信じることではなく、イエスの言われたことをそのまま信じて行動することです。そうすれば、私たちが描いているよりもさらに素晴らしい結果を見ることが できるのです。
 信仰は望んでいる事がらを保証し目に見えないものを確信させるものです。 (ヘブル人への手紙1章1節)