祝福のメッセージ:2019ー08

    あなたの人生に神の祝福をもたらすイエスのことば
 No. 201908

「今日、この聖書のことばが、
あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

 イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4章16-21節)

 イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受け、天からの声を聴き、神からの力と使命を受けてガリラヤ地方で福音宣教を始められました。(マルコ1章)

 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。(マタイ4章14-17節)

 そして、ご自分が育たれた故郷の町ナザレに行かれました。

 その時までにすでにイエスの評判は広まっており、その噂はナザレの人々の耳にも届いていました。イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気やわずらいを癒やされたからです。(マタイ4章23節)

 安息日に会堂に集まった郷里の人々が注目する中で、イエスはイザヤ書から、この驚くべき宣言をなさったのです。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4章21節)イザヤ61章参照)

 ユダヤ人たち、特にパリサイ人は、聖書の番人と呼ばれるほど、旧約聖書に精通していましたが、誰もその預言の成就を宣言できた人はいませんでした。

 人々はあっけにとられました。彼らには噂に聞いた通りにイエスによる奇跡の一つも見られればという程度の期待しかありませんでした。

 それを見抜いておられたイエスは、彼らの期待より遥かに勝る重大な事実を明らかになさいました。「主の恵みの時代が到来した」と言われたのです。

 イエスご自身がその恵みの年をもたらす方であり、待望のメシヤ、すなわち救い主であることを初めて公に宣言なさったのです。

 旧約聖書時代のユダヤでは、経済的な理由などで奴隷の身となった人が大勢いましたが、7年が7回過ぎた年、すなわち50年目が来る毎にヨベルの年、と言って、全ての借金が帳消しになり、奴隷にされていた人々も解放されて、自由の身になったのです。(レビ記25章を参照)

 イエスは多くの人々が悪霊や病気や貧困によって、その奴隷のようになっているのをご覧になりました。イエスの福音宣教はまず、そのように苦しんでいる人々を解放することでした。数々の奇跡や力ある業は、ご自分の力と権威を見せるためではなく、罪の奴隷となっている人々に、神の愛とあわれみを知らせ、その恵みのもとに引き寄せるためでした。

 このことは、すでに何百年も前から、イザヤ書の中に預言されていました。その預言がイエスによって、見事に成就しました。

 主の恵みの年、解放の時がついに来たのです。

 しかし、ナザレの人々はこの奇跡的な瞬間に居合わせたにもかかわらず、イエスを信じませんでした。素直にイエスのみことばに感動した人々の声は、パリサイ人たちの大きな声にかき消されてしまいました。「この人は大工の息子ではないか。我々はその家族も知っている。彼はいったい何様のつもりなのだ。」そんな人間的な思いと高慢が彼らの目を閉ざしたのでしょうか、彼らはイエスを村はずれの崖からつき落そうとさえしました。

 しかし、私たちはイエスの宣言を受け入れます。主の恵みの年、解放の時は私たちにも訪れています。それを信仰によって受け取るだけでいいのです。

 あなたは今、どのような苦しみを背負っておられますか。病気ですか、経済的な苦しみですか、人間関係ですか、将来への不安ですか。あなたを束縛し、奴隷のようにして苦しめているものは何ですか。イエスはあなたをそこから解放するために来られたのです。(ルカ4章23―30節)

 あなたの心の中に、しっかりとイエスをお迎えください。