祝福のメッセージ:2019ー09

  あなたの人生に神の祝福をもたらすイエスのことば

  No. 201909

「あなたの罪は赦された」

 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。

 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」

 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。 中風の人に 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』 と言うのと、どちらが易しいか。 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。(マルコ2章1-12節)

 カペナウムはイエスがガリラヤ伝道の本拠地にしておられた所で、生まれ故郷のナザレから30キロほど離れたところにあるガリラヤ湖畔の町です。イエスはしばしば湖畔の町々で多くの人々に神のことばを教えておられました。

 その時も家の中におられるのを知った人々が大勢集まって来たので、その家はいっぱいになりました。イエスの評判が知れわたっていたからです。

 イエスが教えておられた時、中風で動けない人が4人の友人に担がれて来ましたが、イエスの近くに行けるどころか、家に入ることさえできませんでした。

 そこで友人たちはあれこれ考えた末、屋根に登り、大きな穴をあけて、床に寝かせたまま中風の人をイエスのおられるあたりに吊り下ろしたのです。それを見ていた人はさぞかしびっくりしたことでしょう。

 かれらはイエスのところに行きさえすれば癒していただける、と信じて行動したのです。「屋根を壊した責任はだれがとるのか」 「修理費はどれぐらいかかるか」などは考えていなかったに違いありません。一番大切なことは何であるかよく分かっていたからです。

 イエスは彼らの一途な信仰の行動をごらんになって、こう言われました。

『あなたの罪は赦された』

 これを聞いた律法学者たちは心の中でつぶやいていました。「罪を赦すことは神以外にはできないはずだ。」それをお感じになったイエスは、「寝床を担いで、家に帰りなさい。」と言い換えられました。

 イエスは人の子としてこの世に生まれ、人々に神の御心を表してそれを行うためにこの世に来られたのです。人類を罪の縄目から解放して救うためです。

 神の使命と権限を持って世に来られた神の子イエスには「罪は赦された」と言うのも、「元気になって家に帰りなさい」と言うのも同じことでした。律法の形式ばかりを気にしていた律法学者たちにはそれが分かりませんでした。

 この人に赦されるべきどんな罪があったのかは問題ではなかったのです。

 「全ての人は罪を犯して神の栄光を受けられません。」けれども、イエスは「あなたの罪は赦された」と言ってくださり、全てを解決してくださいます。罪が赦され、この人の病気は治り、友人たちの大きな心配ごともなくなったのです。

 「あなたの罪は赦された」 何と慰めと平安に満ちた力強いことばでしょう。

 聖なる完全な神の前に、罪を犯したことのない人などいません。神の前には全ての人が罪びとです。誰でも病気になる可能性があり今は元気でもやがて肉体の弱さには勝てなくなります。全ての人は完全ではなく、罪びとなのです。

 イエスは、私たちの病気や弱さや失敗や欠点を通して、私たちが完全な姿からは程遠い人間であることに気付かせてくださいます。それによって、私たちは、罪が赦されるためには、神の憐れみにすがる以外にはないことを知るのです。

 あなたが今どんな悩みや苦しみを持っておられたとしても、神はあなたをお見捨てになったわけではありません。心を低くしてイエスのもとに行きさえすれば、イエスは「あなたの罪は赦された」と言って、平安を与えてくださいます。

 その時あなたも、「こんなことは、いまだかつて経験したことがない」と言って神をほめたたえることでしょう。