No. 201912 山上の垂訓Ⅲ
あなたがたは、地の塩です。
あなたがたは、世界の光です。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイの福音書5章13-16節)
一通り「幸いな人々」の姿をお話しになってから、イエスはたとえで教え始められました。
主は、私たちイエスを信じてその教えに従っている者たちに大きな期待をしてくださっています。たとえ私たちが大勢の群衆の中の独りだったとしても、イエスにとっては大切な一人であって決して無視したり軽んじたりはなさいません。ですから、すべてのイエスのことばはあなたのためだと思っても間違いではありません。
あなたがたは、地の塩です。
当時の塩はほとんどが岩塩や池や湖の湖畔で結晶したもので、不純物がたくさん含まれていたようです。したがって時がたつにつれて、塩分が湿気によって溶け出してしまい、残った不純物は塩気がなくなってしまいます。塩気が失われたら何の役にも立たないため捨てられてしまうのです。
塩とは私たちにとってどういうものでしょう。
塩は私たちの体にとって必要不可欠なものです。私たちの体の中には一定の塩分が含まれていて、それがなくなると死を招きます。塩は命を支えるものの一つです。
また、塩は腐敗を防ぎます。
冷凍技術や冷蔵庫がなかった頃は食中毒を防ぐためにも塩は大切でした。イエスの時代もそうだったのでしょう。
適量の塩は食材の味を引き出してくれます。塩分のない食事は味気なく、とてもおいしいとは感じないでしょう。
イエスは私たちにもこの世においてそんな存在になることを求めておられます。私たちは、社会の霊的な命を支える役割を持っています。また、何が正しいことかを見極めてそれを実践し、社会の堕落を防がなくてはなりません。さらに、社会の良い味付けとなろうではありませんか。自己主張が強過ぎて、塩分過多になってはいけません。あくまでも相手の良さを引き出し、全体をまろやかにまとめる人こそ求められます。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。(コロサイ人への手紙4章6節)
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコの福音書9章50節)
その味をなくして、世の人々と同じ生き方をしていては、神の国には何の役にも立たず、塩けのない塩のように捨てられてしまいます。
あなたがたは、世界の光です。
光についても同じことが言えます。光を光として役立てるためには、広く多くの人の目に届くよう、周りを照らすことが大切です。あなたが受けている恵みの光を自分のために役立てるだけでなく、広く多くの人のための光として役に立てるのです。あなたの優しい言葉や親切な行いは、暗闇を照らす光のようなものです。あなたの喜びと感謝の笑顔は悲しみと絶望に陥りがちな人々に希望を与えます。
イエスは、「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われました。
人々は「クリスチャン」と聞くと、きっと品行方正で、何も悪いことをしない人と思うかもしれません。けれども、実際は、イエスによって罪を赦された罪人なのです。決して初めから良い人だったわけではありません。けれども、人々がそう思うのは、多くの先輩のクリスチャンたちが積み上げてきた善い行いのたまものです。
私たちも、それを受け継いで、後の世代の人々のために、この世の光となって周りを照らしましょう。それを見た人々が神を崇めるようになるためです。