No. 202001 山上の垂訓IV
律法や預言者を成就するために来たのです
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。 (マタイの福音書5章17-20節)
神話や偶像信仰のはびこるローマ帝国の支配のもとで、律法の教えやモーセの信仰に従って、神殿を守り、ユダヤ人を精神的に支えてきたのは祭司や律法学者たちでした。特に、律法学者たちは神の律法の教えを普及するための教育に貢献しました。彼らのおかげで旧約聖書の教えが一般に浸透して、伝えられてきたのです。
けれども、彼らはやがて自分たちの権威を誇るようになり、神の教えを守ることよりも、自分たちの立場を守ることに終始するようになりました。そのために、律法の本質を自分たちの勝手な解釈で曲げ、形式的、儀式的なものにしてしまいました。しばしばイエスが指摘し警告なさったのは彼らのそのような間違った態度であって、律法そのものではありません。
神から離れた罪人を救うために、神が救い主をこの世につかわしてくださることは、初めから終わりまで、聖書の中心的なテーマでした。
ですから、どの時代においても律法や預言のことばが意味を失うことはありえないのです。イエスは律法学者やパリサイ人の間違った態度を厳しく批判なさいましたが、昔から、ユダヤ人たちに伝えられてきた律法の教えと預言のことばは、その大切な意味を決して失いませんでした。
イエスが大切にしておられるのは、神の教えに熱心だった多くの預言者たちによって伝えられてきたその律法の精神です。
私たちが旧約聖書を読むときに感じる、「これをしてはいけない」「ああしなければいけない」と言う律法の外見ではなく、なぜそれが私たちのためなのか、神が私たちにそれを守るよう求めておられる真意を深く読み取ることが大切です。律法は決して私たちを無意味に束縛しません。
罪を犯したとき、それによって苦しむのは自分自身だからです。悪を行なうことは自分の人生を卑しめてしまうことです。そのような人生が死ぬまで続くからです。それによって何が得られようとも、そのような人生を誰が喜ぶでしょうか。
神の律法の教えを守り、自分の人生を神の前に正しく保つことは、神の喜びであるとともに、私たち自身の喜びでもあります。
けれども、神が求めておられるような立派な生き方を完全に生き抜くことは誰にもできません。生きるために自分を守り、自分の要求を満たすことが第一だという思いが妨げとなって、神のみこころに従えないのです。それは、罪が人類に入り込んだとき以来の私たちの宿命でした。長い人類の歴史を通して、私たちはそれを負い続けて苦しんできました。けれども、時が満ちて、私たちが解放される時が来ました。それは、私たちの罪を贖い、罪から解放してくださる救い主が神から遣わされたからです。そのお方こそイエス・キリストです。
イエスは私たちのために律法を完全に行なってくださいました。神はそれを、イエスを信じる全ての人の行ないとみなしてくださったのです。
罪と人の欲は大きく膨れ上がり世界を支配し始めています。富むものはますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、戦争と戦争の気配が現実的なものとなり、富と快適な生活のために自然の崩壊も極端に進んできています。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
(ローマ人への手紙5章20,21節)
罪のない人はいません。神の律法を完全に守れる人はいません。律法を完全に成就してくださったイエス・キリストに頼るしかないのです。
イエス・キリストの義によって私たちの罪を覆い隠していただきましょう。それがクリスチャンの生き方です。