No. 202002 山上の垂訓V
だから、こう祈りなさい。
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(マタイの福音書6章10-13-節)
イエスが祈りをこのように教えておられるのには訳がありました。
当時のイスラエルの人々は旧約聖書の教えを学び、信仰深い人々が多かったようです。けれども、その信仰深さがいつしか、「神の律法を守りさえすればよい」という形式主義になっていました。神を心の中心にしていないと、人の目を気にする形だけの信仰となり、律法主義や形式主義に陥りやすいのです。そして、罪深い人間は、自分の利益や評判を第一にしたり、自分の必要を満たすことが先立って、信じていると言いながらも神から心が離れてしまうのです。特に、当時の宗教的な指導者たちは、わざわざ会堂や通りの四つ角に立って祈っていました。そうすれば、自分の信仰心や、律法の知識を人々に見せつけることができると思ったのです。へりくだって神の前に出る、という謙虚な態度はありませんでした。神の前に祈る時には、へりくだった心が最も大切なのです。
そこでイエスはこう祈りなさいと言われました。
天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
私たちをはるかに超えた全能のお方、しかも、私たちすべてのものの源であられる方が私たちの神です。
そんな偉大な神が、私たちに最も身近な父、呼べばすぐに答えてくださる方、となってくださいました。それは、神の子イエスが私たちを神から隔てていた罪のすべてを背負い、十字架の上で死ぬという大きな代価を支払ってくださったからです。イエスを神の子と信じる私たちは、この偉大な神を、天にいます私たちの父よと呼びかけ、安心してみもとに近づくことができます。あなたが祈るときも、天にいます私たちの父よと呼びかけ、イエスの御名によって、みもとに近づいてください。
イエスの十字架による罪の贖いによって、神と和解した私たちは、神の力によって心を支配していただく者となりました。このような人々の集まりを地上における神の国と呼ぶことができます。信者の群れである教会は、たとえ今は不完全でも、やがて完成されて、永遠の神の国に至るのです。その日まで私たちは、神の御国が来ますようにと祈って、自らがその御国にふさわしい者となれるように、主の助けによって日々努め、それを切に待ち望んでいるのです。
しかし、神の御国は未来のものだけではありません。今この世に、私たちのまわりに神の国がなくてはなりません。私たちはそのために今この世に生かされているのです。
だからこそ、みこころが天で行われるように地でも行われますように、と祈らなくてはなりません。すべて私の思う通り、願う通りになりますように、ではありません。みこころを第一にした上で、日々の糧も、健康も、平和な環境も、悪や災難からの救いも、どんなことでも、私たちの必要をありのままに神に申し上げることができます。
しかし、ここに一つ、条件が付けられているのを忘れないでください。それは、赦すことです。人を赦さなければ、自分も赦されません。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちの心には、誰かに対する恨み、憎しみ、怒りがくすぶってはいないでしょうか。絶対に赦せない、とつぶやいてはいないでしょうか。
「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と神の前で宣言して、そんな負の感情から解放されようではありませんか。
神が私たちの全ての罪を赦してくださったのですから、私たちも、人の悪や罪を赦しましょう。悪をさばくことは神にお任せして、私たちは理解し赦すことに決めましょう。私たちも赦されるためです。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
日々、自分の人生を神の前に正しく保つことは、悪や罪の誘惑から守られる道です。それは私たち自身の幸せであり、神はそれを喜んでくださいます。
あなたを通して神の力と栄光があらわされますようお祈りしています。どうぞあなたもそのようにお祈りください。
この祈りの習慣がさらに一歩、あなたを神に近づけてくれるでしょう。