No. 202004 山上の垂訓IIX
人をさばいてはいけません、
自分もさばかれないためです
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイの福音書7章1-2節)
誰でも人がやっている悪や、間違いにはよく気が付くものですが自分がしている間違いには、なかなか気が付きません。たとえ気が付いても、言い訳をしたり、取り繕ったりしてしまいます。
他人を量るはかりと自分を量るはかりが違うのです。しかし聖書にはこう書かれています。
異なる2種類のおもり、異なる2種類の枡そのどちらも主にいみきらわれる。(箴言20章10節)
またイエスは言われました。
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。(マタイの福音書7章3節)
イエスは完全な神の聖さを持っておられる神の子でありながら、人となってこの世に来られました。それは私たちの罪を清めて、救うためであって、ご自分の義のはかりで私たちを量りさばくためではありません。
神の子イエスでさえなさらなかったことを罪人の私たちがしてよいはずがありません。それなのに、しばしば私たちは、自分は正しいと思い込み、正義を振りかざして、人を非難してしまいます。しかし、人の正義なんて怪しいものです。神の義とはほど遠いのです。さばきは神のものです。神にお任せしましょう。人が神の座にすわってはいけません。
そこでイエスは、愛をこめてこう言われるのです。
「さばいてはいけません。自分もさばかれないためです。」
イエスのこのことばは、罰を伴う掟(おきて)ではありません。人をさばくとすぐに自分も神の厳しいさばきを受ける、とおどかしておられるのではありません。このことばはむしろ愛のこもった忠告なのです。
一方、パリサイ人たちは自分たちの義を信じ込み、他の人をさばいていました。
いろいろな状況から、律法を守れない人々を目ざとく見つけてとがめだてをしていたのです。そんなパリサイ人を、イエスは偽善者と呼び、厳しい言葉でお責めになりました。
人の行ないをいつも批判の目で見ていると、相手の事情や状況を思いやる余裕はなくなります。いつも厳しくさばいてしまい、自分自身の狭い心に垣根を巡らせてしまうことになるのです。相手の考えに同調しなくてもよいのです。ただ「なるほど、そういう考えもあるのか」と少しだけ自分の心を広げることができれば、自分を成長させることができます。そして、人間という生き物が、また少し理解できるようになることでしょう。確かに人間は自分勝手でいい加減です。しかし、神はそんな私たちを何よりも大切な存在として愛してくださっています。何とありがたいことでしょう。
罪深い私たちは、誰でも自分を寛容な心で見てもらいたい部分があるのです。人をさばくなら、自分の周りは厳しい批判の目で見る人ばかりになってしまいます。それは究極の生きづらい社会です。
神が重んじてくださるのは、正義のささげものではなく、人の過ちをとがめないで赦し、受け入れる寛容な心です。
愛する皆さん、神は人の行った悪を見つけ出してさばく正義ではなく、人の弱さを思いやる、愛の心を尊んでくださいます。
周りの人々に対して寛容な心を示しましょう。だれもまだ完成した人間ではありません。生きている限り多くのことを学んでいる最中なのです。間違いもあるでしょう。失敗もするでしょう。私もそうです。主は私たちに対して大きな寛容を示してくださいました。そうでなければ私たちはとっくに滅びていたでしょう。ですから私たちも、誰に対しても寛容であることに決めましょう。
それを実行することは、年齢を重ねてもまだ難しいことですが、これから、ご一緒にそれを実行しましょう。実行し始めれば、主が助けて力を与えてくださることが分かってきます。
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(コロサイ人への手紙3章12節)