No. 202005
山上の垂訓IX
求めなさい。そうすれば与えられます。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。(マタイ7章7-12節)
「求めなさい。そうすれば与えられます。」なんと素晴らしい約束のことばでしょう。私たちはいつでも、何でも、遠慮なく神に求めていいのです。どんなことも、ただ待っていないで、積極的に求めるべきです。
「こうなったらいいなあ」「こうしてほしいなあ」ではなく、「こうなればこうすることができる」「これがあればこれができる」と、積極的、建設的に求めるのです。
神は私たちが求めるなら、私たちに必要な良いものを、何でも与えてくださり、現に与えてくださっているのです。与えられたなら、それをフルに活用しましょう。
こうして、私たちは求める中で何が良いものであり、求めるべきものであるかを学ぶのです。
小さな赤ちゃんは、周りにあるものを何でも口に入れて食べようとしますが、おいしくないものや食べられないものは吐き出してしまいます。
こうして、食べられないものと食べられるものの区別を学ぶのですが、注意していないと危険な物もありますので、お母さんは目を離せません。
求めなさい、と教えておられるイエスも、私たちが、何が求めるべき良いものなのかが分かっていな場合があるのをごぞんじです。それでも、「求めなさい」と教えておられるのです。ですから、自分の欲しいものは、何でも、祈り、神に求めていいのです。そうすれば、手当たり次第に口に入れる赤ちゃんのように、私たちは見守られていて、良いものを求めた時には良い結果を、逆に間違ったものを求めた時は、そこから、正しい求め方を学ぶことができるようになるのです。こうして私たちは、祈り求めて、その結果を見極めることによって、良いもの、良いことを求める習慣を学ぶのです。そうすれば、神に求めるものは必ず与えられるようになります。
「あなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださる。」とイエスは約束してくださっています。
この教えの中に、もう一つ大切なことがあります。
今回もまた、イエスは、人の行ないと自分の行ないとのバランスの中で、大切な真理を教えておられます。それは、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。という教えです。
自分がしてほしいことを人にしてあげて、自分にしてもらいたくないことを人には決してしないことが守られたら、私たちの周りは、また、今の世界は、どんなにか住み良いところとなることでしょう。
イエスは、求めなさい、という教えの中に、この基本的に大切なことを付け加えておられるのはなぜでしょう。これこそ、私たちが、何が良いものであって、求めてもよいものであるかを判断する基準となるからです。自分にしてもらいたいことを、他の人にもしてあげることで、何が求めるべき本当に良いものであるのかが客観的に分かってきます。
自分の欲望に従って、求めていると、結果的には自分の益にならないだけでなく、隣人の害になるようなこともあるからです。
求める時には自分の動機をしっかりと見つめ自らにこう問いかけてみましょう。「私の求めるものは誰か他の人にも喜ばれ、助けになるものだろうか。だれかを押しのけたり、傷つけたりはしないだろうか。」これで、利己的な願いはふるいにかけられて落ちてしまうはずです。
もちろん赤ちゃんがいっぺんに大人になれないように、私たちもいっぺんに成熟したクリスチャンにはなれません。しかし、目標に向かってご一緒に生きてまいりましょう。
こうして私たちは神の御心にかなった祈りとは何かを理解し、イエスの言われた通りに、私たちの天の父は私たちに良いものを溢れるばかりに与えてくださいます。