No. 202006 山上の垂訓X
狭い門から入りなさい。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイの福音書7章13、14節)
イエスはこれまで、「何でも求めなさい。そうしたら与えられます。」「思いわずらわないで、安心していなさい。」と言って、多くの慰めのことばをかけてこられましたが、ここでは一歩進んで、急にトーンを変え、「狭い門からはいりなさい」「偽預言者に気をつけなさい」「主よ主よと言っているだけでは天国に入れません」「信仰を実践する人になりなさい」「岩の上に自分の家を建てなさい」と厳しい口調で教えておられるように感じます。態度をお変えになって「世の中はそう甘くはないから、平坦な道ばかりを選んでいてはいけない」と言っておられるのでしょうか。そうではありません。困難な道だけを選んで行きなさい、と言っておられるのでもありません。
私の受験時代には、東大に合格することを「狭き門」と称して、多くの人が挑戦していたことを覚えていますが、イエスは私たちにエリートの道を目指すことを薦めておられるのではありません。また、アンドレイ・ジイドの「狭き門」という小説のように、自分の意思を殺して、人生をささげる道を進むことを求めておられるのでもありません。
誰でも自分ではなかなか決められないことがあります。決断ができない時、誰かが「そこだ、行け」と言って背中を押してくれたら、どんなに勇気を与えられて、未来に開かれた良い道への一歩を踏み出せるだろう、安心して力を尽くせるだろう、と思うことがあります。
イエスは苦労のある、困難な道を選んで行きなさい、と言っておられるのではありません。たとえ難しい狭い道であっても、そこにあなたの素晴らしい未来が開かれる道なら、勇気を出してそこを進むようにと導いておられるのです。いつまでも状況任せのやさしい簡単な道ばかりにとどまっていては本当に良いものにたどりつけません。
けれども、私たちは自分から進んで、あえて狭い困難な道を選ぶことができるでしょうか。たとえそれが良いと分かっていても、なかなか踏み出せないことが多いのです。そこで、イエスは「このようにしてその道を選びなさい」と教えておられるのです。
「狭い門から入りなさい」から始まる今回のことばは、迷うことのない確かな道、妥協のない信仰の基盤の上に建てられた道を教えています。
偽りの教えや、偽りの価値観はいつの時代にもはびこり、多くの人々が、他人を押しのけ、傷つけても、自分が得をする道を選んでいます。それでは、自分自身の人生も本当に充実したものとはなりません。
では、狭い門から続く狭い道を行くとは、どんなことでしょう。まず、多くの人を惑わしている間違った価値観や習慣に気をつけることです。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、内は貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。(マタイ7章15-16節)
どんなに立派に見える主義主張であっても、それが結ぶ結果によって、それが真実に神の御心に沿ったものかどうかを見分けるのです。
わたしに向かって、『主よ、主よ』と口先だけで言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父の御心を行う者が入るのです。(マタイ7章21節)
口先だけで神を敬うのではなく、本当にその教えに従った生活をしているかどうかが問われるのです。そういう人の歩みには確かな結果が伴うからです。
私たちの言葉、態度、行ないは、神の御心に合っているでしょうか。毎日、神の前で自らにそう問いかけることにしましょう。
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。(マタイ7章24-25節)
これこそ、どのような試練にも耐えられる確かな道です。
口先だけの良い言葉にまどわされず、真実な教えに従って生きるなら私たちの信仰は確かなものであることが証明されるのです。
他の多くの人と同じ流れにのって進んでいけば、楽かも知れません。しかし、厳しくても神に従う道を行けば、素晴らしい恵みのチャンスが開かれてきます。それが自分の前に現れた時、誰も行かないように思えても、イエスの教えに照らして正しい道であると感じたなら、その道を進んでください。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても倒れない、岩の上に建てられた堅固な家のように、本当の平安と素晴らしい未来が開かれてくることを、イエスが保証しておられます。