祝福のメッセージ
No.202007
たとえによる教え I
聞く耳のある者は聞きなさい。
イエスは、たとえ話をなさった後でしばしばこのように言われました。聞く耳のある者は聞きなさい。(マタイ11章15節、13章9節、マルコ4章9節、ルカ8章8節、14章35節)
すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
(マタイの福音書13章11、13節)
イエスに従っていた弟子たちは、イエスのことばを、初めから受け入れる心を持って耳を傾けていました。一方、律法学者やパリサイ人たちは、自分たちの知識と権威を誇り、初めからイエスの教えに疑いの心を持って聞いていたのです。すなわち、聞く耳を持っていなかったのです。
福音のことばは私たちを人間の知恵や理屈で説得する言葉ではありません。愛といたわりの心で、私たちを真理の道に招いているのです。イエスは、愛をこめて、時には権威を持って力強く神のことばを人々に語っておられました。それでも、聞く耳を持たない人には、その教えが理解できなかったのです。
今もイエスのことばは聖書を通して私たちに語りかけています。私たちはその言葉に素直に耳を傾けようとしているでしょうか。もしそうなら喜んでください。私たちは神の深い真理にふれようとしているのです。けれども、神の真理はあまりにも深く大きく、完全に理解することは、私たち人間には不可能です。けれども心配はいりません。聞く耳を持って謙虚に受け入れようとするなら、聖霊が私たちを助けて、その場その場に必要な真理を示してくださるからです。イエスの例え話は聞く耳があれば誰にでもわかるのです。
種まきのたとえ
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。聞く耳のある者は聞きなさい。」
(マルコの福音書4章2-8節)(ルカ8章4-8節)
種とは、神のことばの真理であり、福音のことばです。
私たちはしばしば、日々の生活に追われて、あくせくと生きている自分に気が付きます。なぜ、何ために生きているのか、とふと立ち止まって考える余裕がなくなっているかもしれません。しかし、生きる意味や目的を考えることは、人間を人間らしくするとても大切なことなのです。人は「神のかたち」に造られたからです。この地上の快適な生活だけを追い求めていると、一番大切な霊的ないのちへの思いが奪い取られてしまいます。
私たちは、自分の人生そのものや、その先について、永遠について、魂のことについて、考える時が必要です。ただ漫然と生きるだけの人生では、あまりにももったいないからです。人生の終わりが近づいたときになって初めてそのことに気が付くのでは遅すぎるのです。
そのために、神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。神とその御心を知るためには、イエスのことばを心の耳で聞き、そのことばを深く考えて自分の中で育てることが必要です。そうすれば、御ことばの種はあなたの心の中で何倍にも大きく育ってくれます。
イエスのことばによる神の国についての正しい理解は、あなたの人生をこの世においても、また、永遠においても、豊かで実りあるものにしてくれます。
難しい神学や、哲学を学ぶようにして、神を知るのではありません。その試みも大切かも知れませんが、それらの学問は、あくまでも人間の考える範囲のものであり、優秀な学者たちの仕事です。
全ての人はまず、自分自身のためにイエスの教えに真剣に耳を傾けて、自分の人生を豊かなものにすることが大切です。
日々、イエスのことば、聖書を通して、私たちの人生において大切なことを学ぶ時間を取りましょう。
そして、イエスが言われる「聞く耳のある者」になりましょう。