祝福のメッセージ
No.202008
たとえによる教え II
麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい。
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。
『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちにまず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」 (マタイの福音書13章24―30節)
次にイエスが語られたたとえ話は、良い麦の種と悪い麦の種の話です。
前回のたとえ話のように、同じ良い種を蒔いたときの結果の違いを教えておられるのとは違って、初めから、悪い種が良い種の中に混じってまかれている場合です。同じような種まきの話ですが、イエスは全く違った角度から、神の国について教えておられるのです。
良い麦と悪い麦が混在して畑に蒔かれた時、なるべく早くそれを見分けて悪い麦が良い麦の生育を妨げないようにしたいところです。
けれども、主人はそれをさし止めています。麦と毒麦は初めのころはよく似ていて、区別がつきにくいために、間違って良い麦を抜き取ってしまわないためです。
この世の中は真実と偽りとが混在しています。悪事がはびこり、繁栄して、正直でまじめな人が苦しむことも珍しくありません。けれどもそれを見分けることは簡単ではありません。悪は悪、善は善とはっきりと分かる場合もありますが、分からないことが多いのです。
詐欺の電話がよく問題になります。詐欺師の声を大切な息子や孫の声と信じてしまうことさえあるのです。詐欺師が見た目には、実に好青年だったりします。
経験と訓練を積んだ専門家によって行われている裁判でさえも、しばしば誤審が起こり、未だに多くの人が無実の罪をきせられて大切な人生を乱されるという悲劇が起こっています。人の判断には、どんなに注意しても間違いが伴うものです。
私たちも、個人的な関係において誤解や早急な判断で友人や身近な人を非難し傷つけてしまうことがあります。ですから人を裁いてはいけません。私たちの判断がいつも正しいとは限らないからです。
私たちの心の奥底まで見通しておられる方は、全てをご存知です。たとえ正しいと思っていても、立場や考え方によって判断が違ったり、全く逆になったりすることもあります。まして、魂の永遠を左右する判断は、神のみがなさることです。
このたとえ話の中で、しもべたちが「毒麦が混じっています」とはっきりと主人に伝えたのですが、主人は毒麦を抜き取ることを許しませんでした。
神の国にとっては、良い麦が間違って抜き取られるようなことは絶対あってはならないのです。神にとって一人の魂もどんなに大切か、ここからもよくわかります。間違って抜き取られるようなことのないよう、しっかりと守られているのです。
公平な審判者であられる主は、最後には、はっきりとした裁きをお下しになります。イエスは、その時の厳格な審判のことを弟子たちにこのように説明なさいました。
毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。(マタイの福音書13章40-43節)
あなたは神にとってかけがえのない大切な魂です。ですから、あなたもご自分の魂を大切に扱ってください。自分が主に愛されている者であることをはっきりと自覚していましょう。そうすれば、決して神の守りの手から漏れることはありません。今は色々な苦労があり、世の人々に軽んじられていると感じることもあるでしょう。しかし、最後には良い麦が倉に納められるように、神の国の住民として、迎えられ、イエスと共に太陽のように光り輝く者となるのです。