祝福のメッセージ
No.202009
たとえによる教え III
天の御国についてのたとえ話。
イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」
イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」
天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。この世の終わりにもそのようになります。(マタイの福音書13章31-33、44―49節)
イエスのたとえ話の中で一番、はっと目の開かれる思いのするのは、天の御国についてのたとえです。なぜなら、それは私たちの究極の課題であり、最終目標なのに、私たちの知恵では絶対知り得ないものだからです。イエスご自身が、その奥義を、私たちに知らせるためにこの世に来てくださいました。ですから、新約聖書の中には御国という言葉が84回も書かれています。
神が与えてくださった理想の国、エデンの園を、背きの罪によって汚してしまった人類は、アブラハムを通してこの地上に約束の地を与えられることになりました。長い年月と世代を通して、ついにモーセとヨシュアによって、約束の国が完成するかのように見えました。しかし、神に背いた指導者たちの罪の故に、この国は崩壊して、他国に支配され、民は祖国を追われ捕囚の身となりました。そこで、神はイエス・キリストを遣わして、人間の背きの罪を根元から取り除いて、今までとは全く違った、直接神が支配なさる完全な国を約束してくださったのです。その国がどのような国なのか、神の子であられるイエスご自身が私たちに教えてくださらなければ、私たちの頭では、その国の広さ、大きさ、完全さを理解することはおろか、想像することさえもできません。地球はもちろん、宇宙を超えた国だからです。
からし種とパンのたとえは、神の国が大きく広がって限りなく成長するものであることを説明しています。後半のたとえでは、絶大な価値のあるものと価値のないものとを選択する場合に例えられています。神の国は私たちが求める何物にもまして絶大な価値のある、究極的な目標として選択すべきで、私たちの意志ではっきりと選ばなければならないのです。
高価な真珠を見つけた商人は、今まで自分が大切にしていた宝物が、その真珠に比べたら、全く価値のないものであることに気付いたのです。
パリサイ派に属するユダヤ人の熱血青年パウロはどうだったでしょう。彼はユダヤ人でありながらローマの市民権を持つ名門の子息であり、当時の最高教育を受けたエリートでした。そのパウロがイエス・キリストに出会い、人生が一変した時の経験を、ピリピ人への手紙3章7、8節でこう語っています。
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私も同じような経験をしました。イエスに出会ったことによって、今まで、自分の生涯をかけて学びたかった物理学が、私の目標ではなくなったのです。勿論、今でも、宇宙の起源やそこに満ちている全ての物質の性質や光や時間というものの本質を極めようとする物理学には興味があります。神が私たちを存在させたこの宇宙がどのようなものか、私たちに与えられている今の時間が、永遠という時間とどのようなかかわりを持っているのか、私は今でも考えることがあります。けれども、神の永遠の約束に比べれば、それほど大切だとは思わなくなりました。
今あなたが一番大切にしているものは何でしょう。名誉も地位も財産も、確かに価値のあるもので大切にしても良いのです。けれども、それが全てであっては、永遠に残るものを見失ってしまいます。天の御国は、今まで自分が最も大切だと思っていた物を全て投げ捨てても手に入れる価値のあるものです。
次のたとえは、漁師が網でとらえたものをより分ける場合です。これは、私たち自身がより分けられることを意味しています。天の御国に入れる良いものか、それとも、外に捨てられる悪いものか、それは、神がお決めになることです。しかし、そこに至るまでに私たちが何を選んで生きて来たかを神は見ておられます。ですから、私たちは今、自分の行き先を選んでいる とも言えるのです。あなたはもうイエス・キリストに従って、生きていますか。この世で大切にされているものよりも、神の国で大切なものを追い求めていますか。
私たちの行ないの全てが永遠の神の国においても通用するかどうか日々考えながら生きてまいりましょう。