親愛なる祈りの家族の皆様、
困難や試練の中から、良いものが生まれてくることは誰の人生にも珍しいことではありません。聖書もそのことをいろいろなところで示唆してくれています。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。(詩篇119篇71節)
ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。(イザ書38章17節)
たとえあなたが今困難に直面しておられたとしても、失望することはありません。問題があなたの力に余るものだと思っておられますか。ここを切り抜けることはとてもできない、とがっくりしておられますか。けれども、神には不可能はありません。どんなに追い詰められた状態でも、イエス・キリストを信じているあなたには、神が共におられて、不可能を可能にしてくださるからです。
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙12章10節)
困難を喜ぶことは難しいことです。わざわざ困難を招く必要はありませんが、困難は誰の上にも必ずやってきます。ですから、その時こそチャンスです。希望を持って困難に向かって行動すれば、神はあなたに力を与えてくださいます。あきらめてはいけません。今の困難は将来の大きな恵みと祝福のために神が備えられた通り道です。終わりではありません。
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(ペテロ第一の手紙5章10節)
私たちの身に困難がやって来るのを神が容認なさったのなら、そこには意味があります。決して無駄な痛みや苦しみではありません。大丈夫です。それは、終わりではなく、栄光に満ちた勝利の始まりとなるのです。あなたの痛みや苦しみをイエス・キリストがあなたと共に負って歩んでくださるからです。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・・しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53章4、5節)
主イエス・キリストによって、最後まで希望を持ち続けてください。人がどうしても打ち勝つことができない死という現実にさえも、イエス・キリストは私たちのために復活を準備してくださいました。ですから、私たちは死という最終的な敵にさえも勝利することができます。いや、すでに勝利しているのです。なぜなら、永遠のいのちの約束が与えられているからです。誰もこの勝利を私たちから奪うことはできません。私たちは勝利者です。苦しい戦いの後は、勝利者として冠を受けるために栄光の座へと進むだけです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ人への手紙8章37節)
私たちは功績をたたえる、表彰式や授与式を実際にもテレビでもたくさん見てきました。最近も、ノーベル賞の授与式がありました。オリンピックのメダルの授与式も何度も見ました。来年もきっとたくさん見られることでしょう。皆さんはどんなことに注目してご覧になりますか。勝利が決まった瞬間の表情も感動的ですが、私は特に、席を立って表彰台に進んでいく時の受賞者の姿に興味を持ちます。誇らしげに満面の笑顔で壇に進む人もあれば、涙で顔をくしゃくしゃにしながら進む人もあります。皆さんが喜びでいっぱいであることが感じられます。この栄誉に至るまでの道は遠く険しいものだったに違いありません。他の人たちが遊んでいる時にも、厳しい訓練や研究に明け暮れ、歯を食いしばって頑張ってきたのかも知れません。しかし、表彰台に向かう今、彼らにあるのは喜びと感謝だけです。全ては報われました。途中で投げ出さなくてよかったとしみじみ思うでしょう。
愛する祈りの家族の皆さん、私たちの本当の人生は、終わりに向かっているのではありません。始まりに向かっているのです。栄光の日々が待っているのです。イエス・キリストと共に勝利者らしく、喜びと誇りを持って一歩一歩進もうではありませんか。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛