No.202011 たとえによる教えV どら息子、帰る |
ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。(ルカの福音書15章11―24節)
このたとえ話は、聖書を読んだことがある人なら誰でもよく知っている有名な話で、迷い出た羊のたとえ話と並んで、よく引用されます。だからと言って、「この話なら、もうよくわかっている」と脇に押しやらないでください。初心者に「天の父」の衝撃的な愛を伝えていると同様に長年クリスチャンとして生きてきた人々がしばしば立ち返るべきところを示してくれています。よく読んで自分に当てはめてみると、考えさせられ、教えられることがたくさんあります。
上の息子は、父親の仕事を継いで、日々忠実に働いて、穏やかな暮らしをしていたようです。若い方の息子は平凡な毎日を嫌って、もっと自由で刺激的な生き方を求めて、家を飛び出し、父からの相続分を先取りして、そのお金で毎日を面白おかしく、やりたい放題に過ごしました。そんな生活が長続きするはずがありません。まじめな努力や堅実な習慣を積み重ねることを嫌ったこの若者は、自分の生活を自分で支えるすべさえ知りませんでした。
たちまちお金を使いはたし食べる物にも困るようになり、どん底生活に陥ったのです。一時的な欲望に駆られて、自分勝手な道を走った結果がこれでした。ここで彼は初めて父の家で有り余るほどの恵みを受けていたことに気づいたのです。彼は罪を悔いて、へりくだって父のもとに帰る決心をしました。
一方、父親は毎日外に出て、「今日こそ息子が帰って来るのでは・・・・」と見張っていたに違いありません。父の心は常に息子の上にあったのです。ついにある日、息子がみすぼらしい姿で歩いて来るのを、遠くから見つけると、駆け寄り愛を込めて迎え入れました。
イエスは神を「わたしの父」と呼ばれ、また「あなた方の天の父」とも言われました。神をこのように紹介なさったのはイエスが初めてです。これは画期的なことでした。ドラ息子でも、バカ娘でも子であることに変わりはありません。
「わが子よ、帰ってきなさい」と神は呼びかけ忍耐強く待っておられます。
そして遠くからその姿を見つけると走り寄って迎えてくださいます。みすぼらしく汚れきっていても、ありのままで受け入れてくださるのです。
けれどもいつまでも汚いままではありません。父は息子に最上の服を着せ、指輪をはめ、新しい靴を履かせ、美しく装わせました。息子自身のものは一つもありません。すべて父からの贈り物です。私たちは天の父から、息子、娘にふさわしい衣装を与えられます。それはキリストの品性である、愛、寛容、平和などの、素晴らしい衣装です。
近頃は私もステイホームで服装にこだわらなくなり、いつの間にかだらしなくなったのか、時々妻に小言を言われます。しかし、そういう妻自身も、おしゃれに気を使っているとはいえず、お互いの姿につい笑ってしまいます。人に不快感をあたえるような服装はいけませんが、もっといけないのは、その人の内面から出てくる悪意、高ぶり、妬み、恨みなどです。キリストにある美しい品性で身を飾りたいと思います。
あなたは今どこにいらっしゃいますか。父の家でその恵みを存分に受けて感謝に溢れていますか。そういう方にはお願いがあります。父の家を飛びだして、やりたい放題の人があなたのそばにいたとしても、いらだつのではなく、さばくのでもなく、天の父に習って愛と寛容を持って祈りつつ待ってあげてください。
私たちは誰でも時には失敗をして、父の家を離れてしまったように感じます。その時には、帰るところがある、待っている方がおられることを思い出しましょう。いつでも、どこからでも、帰ることができます。天の父はあなたの帰宅を何よりも喜んでくださいます。
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカの福音書15章10節)