親愛なる祈りの家族の皆様、
イースターはイエス・キリストの復活を記念する日です。けれども、復活の前には受難週があります。何の罪もない神の御子イエスは、当時の宗教的指導者たちの妬みの故に、犯罪者のように捕えられ、あらゆる侮辱と肉体的苦痛を黙々とお受けになったあげくに十字架にかけられました。しかし、これらはすべて神の御計画だったのです。罪の代価は命によらなければ完全に支払うことはできません。イエスは私たちの罪を全てご自分の上に引き受けて、罪のないご自分の命によって、私たちが支払うべき罪の代価を支払ってくださいました。その贖いのわざが完了したことを保証するために神はイエスをよみがえらせてくださいました。ですから、イースターは、十字架に死なれたイエスが生き返って、その証拠に人々の前に現れたというだけではありません。私たちの救いの完全な保証なのです。
このようにしてイエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。(ヘブル7章22節)
罪を犯し、死ぬべき運命を背負うことになった人類に対する新しい契約がはじまりました。神がこの世におくられた御子イエスを信じる者に永遠の命を与えるという契約(約束)です。人が罪を犯すようになることは神の願いではありませんでした。更に、人が罪の故にこの世においても、死の後にも、永遠に罪の呵責に苦しみ続けることを、神は願ってはおられないのです。人が罪を犯すことは、神の心を悲しませるだけでなく、私たち自身をも深く傷つけ苦しめます。良心の呵責に苦しみ、びくびくしながら生きることはどんなにみじめでしょう。神はそこから私たちを解放してくださいました。私たちが罪を告白し、悔い改めて、神に立ち返るなら、償いきれない罪のために苦しみ続けなくてもよくなったのです。神の愛と赦しを信じ、感謝してその恵みをしっかり受け取ってください。そうすれば、安心して神に近づくことができるようになります。それだけではありません。復活の主ご自身が、こう言っておられます。
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11章25、26節)
人類にとって最終的な敵、それは死です。死は私たちから全てを奪い取ってしまいます。愛する者と死別することは、遺された者にとってこの上ない悲しみであり痛みです。
この手紙を読んでくださっているほとんどの方が、その悲しみをすでに経験しておられます。私もそうです。その痛みと空虚感は大変よくわかります。死んだ人はもう二度と帰っては来ません。けれども「わたしを信じる者は死んでも生きる」とイエスは言われます。
それは、イエスのように、死に打ち勝ったことを証明するために、よみがえって、墓から出てくることでしょうか。そうではありません。新しい復活の命を与えられて、神と共に永遠に生きるようになるのです。
では、「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがない」とはどんな意味でしょう。
地上で命あるものは必ず死にます。それは全ての人の通る道です。しかし、イエスを信じる者にはすでに永遠のいのちが与えられています。死んでから与えられるのではありません。肉体は死んでも、信仰によって与えられている永遠のいのちは、損なわれるどころか、完全な形で現われるのです。
イエスを信じていて、死んでいく本人にとって、死ぬことは別れでも悲しみでもありません。イエスと同じ復活のいのちと直結して生き続けることです。ですから、「わたしを信じる者は死ぬことがない」、とイエスは言われるのです。この世に生き続ける者にとって、愛する者との死別はしばしの悲しい別れではありますが、イエスを信じて、すでに永遠のいのちを与えられている本人には、大きな喜びと感動の時に違いありません。愛する主イエスに、直接おあいできるのです。先に地上を去った大切な人たちとも再会できます。
イエスの教えの中で何度も語られている、復活と永遠のいのちの約束は、イエスご自身の復活によって、その時代の目撃者たちから、今日の私たちにいたるまで、信じる者への確かな保証として、受け継がれているのです。
永遠のいのちを約束してくださったイエスを信じ、今の命を、喜びと感謝に溢れて生きてまいりましょう。たとえ今、苦しいことがあっても、互いに祈り合い、励まし合って、共に進もうではありませんか。やがて全ての苦労が報われる日が来ます。
忘れないでください、十字架の痛みと苦しみの後には、復活の喜びと栄光が続くのです。
あなたは愛されています。
レックス・ハンバード祈りの家族
桜井 剛
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