No.202104
「神のみこころ」とは何でしょう
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。
(ヨハネの福音書6章37-40節)
神は宇宙の全てを創造して、その片隅にある地球という星に人間を住まわせました。神の愛と関心はひたすらこの星と私たち人間に注がれているなんて想像できますか。神は私たちをご自分の霊的な交わりの相手、友としてお創りになったのです。しかし、人間が神に背いた結果、神と人との交わりは断たれてしまいました。人との親しい霊的な交わりを回復するという神の御計画は、その時から始まったのです。旧約聖書の時代を通して、神は、やがて救い主(キリスト)を遣わすと約束なさいました。ついにその時が来てイエスがこの世に来られました。
御子イエス・キリストに出会い、彼を救い主と信じる者が罪を贖われて、神との霊的な交わりを取り戻し、永遠のいのちによみがえるためです。
イエスはご自分がこの世に来られた目的を「私を遣わされた方のみこころを行なうためです」と明確に言われました。では、イエスを遣わされた神のみこころとは何でしょう。「私の父のみこころは子を見て信じる者が永遠のいのちを持ち、私がその人を終わりの日によみがえらせることなのです」
これもまた、何のあいまいさもない明確な答えです。イエスはこの目的を実現するため、この地上での生涯を生き、ご自分のいのちによって私たちの罪を贖ってくださいました。
イエスのもとに来るなら、どんな悪人でも、弱い者でも、拒まれることはありません。神の目には人は誰もみな同じ罪人だからです。
イエス・キリストは人となってこの世においでになったので、人の痛みと苦しみをご自分の身をもって経験なさいました。
イエスは私たちを誰よりも深く理解してくださいます。「誰も分かってくれない」などとつぶやく必要はありません。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みに あわれたのです。(ヘブル人への手紙4章15節)
神の側ではなすべきことは全てなさいました。私たちの救いの道はもう完成しているのです。では、私たちの側では何をすればいいのでしょう。
それは「神が遣わされた御子を信じること」それだけです。あとは一日一日をイエスと共に生きていけばいいのです。
それは、個人個人の決断に委ねられています。御子をこの世に遣わされた神の最終的な目的は、イエス・キリストを見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、その人をイエスご自身が終わりの日によみがえらせることです。
こうして神の御計画はイエス・キリストの贖いによって、いよいよ完成に近づきます。そして、最後には、私たちはイエスにあってよみがえるのです。
長い冬の間、枯れ木のように黒々とした枝ばかりだった木々が、いたるところで新しい芽を出し、花を咲かせて、生き生きと若葉を茂らせ始めました。自然界の全ての生き物が、競って新しい命に躍動し、イエス・キリストの復活を思う季節に相応しい光景を見せてくれています。
しかし、そこに至るまでには、長い厳しい冬がありました。その準備の時を耐え抜いてこそ美しい花が咲きます。野菜の多くも寒さを通ることで、より甘くおいしくなると聞きました。
私たちも、生涯の中で喜ばしいことばかりでなく、苦しいことも経験します。その様々な人生経験の中で、私たちは磨かれ、キリストにふさわしい者へと変えられていきます。こうして最後の復活にあずかる者になるのです。
私が病気で入院したのは4年前の冬の終わりの頃でした。
肺を手術して、中皮腫であることを突き止めた医師は、私がクリスチャンであることを知っていて、こう言いました。「今年の桜は見られるでしょう。来年の桜はどうでしょうか。」
私は正直に真実を告げてくれたその医師に、感謝しています。けれども、それ以後も、私は今年で5回目の桜を見ることができました。
まだ地上で主のために働けることを感謝すると同時に、終わりの日の復活と永遠のいのちへの期待がますますふくらんできます。