No.202106
あなたの罪は赦されています。
だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。(ルカの福音書7章47、48節)
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
(マタイの福音書9章2節)
新約聖書はギリシャ語で書かれました。このことばはどちらも「赦され、ずっと赦され続けている」と言う意味です。「あなたの罪は赦されている」というのは「過去のある時に完全に赦された」ことを意味すると同時に、その後も「ずっと赦され続けている」ことを表しています。神の赦しはこのように完璧なのです。しかし、この完璧な赦しが成立するために、神の側に大きな犠牲が伴いました。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10-12節)
と書かれている通り、罪のない人、完全な人は一人もいません。
人が犯す全ての罪は、神に対する罪であっても人に対する罪であっても、全て神の掟に反して行なわれたものです。罪はどんなに小さく思えても神に対して行なわれた罪であって、大小の区別はありません。ですから、正義の神は罪をそのまま見過ごしにして「まあ、そのぐらいはいいさ」と言うことできないのです。それには必ず、裁きと罰があるのです。けれども、いったい誰が神の厳しい罰に耐えることができるでしょうか。どうやって償うことができるのでしょうか。私たちにはできません。
そこで、神ご自身が人となって、この世に来られました。 イエス・キリストが、私たちの罪の赦しのために身代わりに罪の罰を引き受けてくださいました。キリストの十字架の苦しみと死によって私たちの罪の代価はもう支払われました。それしか方法がなかったのです。それが私たちへの神の愛です。私たちに必要なのは感謝してそれを受け取るだけです。もしまだこの大切な決断をしていない方がいたらどうぞ今、「あなたの赦しを受け取ります」と神の前に告白してください。それだけであなたは神の子どもです。後ろを振り返ってはいけません。
神は私たちの罪を全て赦し、忘れると言ってくださいました。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書 43章25節)
神が赦して忘れてくださった罪を、自分で掘り起こして悩む必要はありません。それは愚かであり、とても危険なことです。
しかしこれですべてが解決したわけではありません。弱さを持ちつつこの世に生きている限り私たちは罪の誘惑に囲まれています。誘惑に負けてしまうこともあります。その時は思い出してください。「あなたの罪は赦され続ける」のです。そのたびに救い主のもとに駆け寄って悔い改めてください。キリストのゆえに神はあなたを赦し続けてくださいます。
神が求めておられる義人とは、初めから完全で正しい人ではありません。 もともとそんな人は存在しません。自分こそ正しいと思い込んでいる人は今もいるかもしれません。イエスがお嫌いになったパリサイ人がまさにそうでした。神の子イエスキリストによって罪を赦され、赦され続ける人こそ真の義人です。
もしあなたが「罪を赦された人」であるなら、次にあなたのすべきことは何ですか。それは、人のあやまちを赦すことです。
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ人への手紙3章13節)
だれでも、いらいらしたり、もやもや心が晴れないことがあります。そんな時自分の心を探っていくとだれかに腹を立てていて、赦せない、という気持ちがひそんでいることがあります。一度は赦したつもりでも、いつまでもその記憶を抱え込んでいるからです。それでは本当に赦したことにはなりません。赦したら忘れて自由になりましょう。
神は私たちの罪を赦してくださいました。またこれからも赦し続けてくださいます。私たちは罪から解放されて自由になったのです。だから人の過ちも赦し、誰かから傷つけられた記憶からも解放されましょう。あなたがそれを願うなら、神はあなたを解放し心の傷も癒してくださいます。
そうすれば私たちの生活はもっと軽やかで楽しいものになるでしょう。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
マタイの福音書6章12節